歴史の深層、伝馬町牢屋敷。
伝馬町牢屋敷跡の特徴
小伝馬町駅から徒歩3分、歴史を感じるスポットです。
江戸時代に存在した囚人収容施設の跡地を見学できます。
ドラマ仁にも登場した伝馬町牢屋敷跡の歴史的意義。
お昼頃に伺いました。
時を経て今はお弁当スポットになっています。
吉田松陰に思いを馳せられます。
お寺の自家用車はちゃんとした駐車場にとめたら?とおもいました。
十思公園にある吉田松陰終焉之地(伝馬町牢屋敷跡)には、銅鐘石町時の鐘/吉田松陰先生の石碑が有ります。
江戸時代に、あったことが、今も残っている、😌
十思とは昔の中国の資料にある十の心得からきているそうで「じっし」とよむ。
公園名は公園のとなりにあった元十思小学校の名前からきている。
牢屋は道を挟んだ十思公園と元十思小学校の敷地にあった。
(写真)公園には日本橋室町にあった「時の鐘」が移設されている。
公園内には吉田松陰の辞世の句の彫られた石碑がある。
(写真)墓は荒川区内の小塚原回向院にある。
(写真)回向院にある吉田松陰の墓(奥)(写真)元十思小学校脇には牢屋敷の石垣が置いてある。
(写真)牢屋敷は周りを石垣で囲まれ、そとには堀があったそうだ。
史跡を埋没させずに少しでも残すところに意味があると思いました。
伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)は、かつて江戸に存在した囚人などを収容した施設である。
現在はその一部が東京都中央区立十思公園になっている。
江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。
所在地は日本橋小伝馬町(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。
常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。
それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。
明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。
周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。
高野長英や吉田松陰らも収容されていた。
沢山の人間が囚われ処刑された場所だと思うとぞくぞくしました。
場所は公園になっていて子供達が遊び回りほのぼのしております。
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。
発掘された石垣が並んでいます。
かつてはたくさんの人々が収容されていたところ。
隣の十思公園隣の建物1階に当時の模型がありますので興味ある人は是非。
ドラマ「仁」で南方先生が収監された牢屋跡だ。
歩いて目と鼻の先に牢屋に関する博物館がある。
今度いってみたい。
通勤途中で寄りました。
石町時の鐘と同じ公園内にあります。
当時の石垣が積まれており、時間の流れを感じます。
この一帯は、かつて小伝馬町牢屋敷でした。
幕末には、ここで橋本左内や吉田松陰が処刑され、小塚原刑場に運ばれました。
公園になっている現在は、近所の子どもたちが元気よく走り回っていました。
過去の歴史とのギャップが、なんだかシュールですね。
名前 |
伝馬町牢屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
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⭐️日比谷線/小伝馬町駅から徒歩3分に、時代劇や歴史小説に出てくる「伝馬町牢屋敷」、一番記憶にあるのは漫画「竜馬が行く」で松下村塾の塾生たちが、吉田松陰の屍を引き取りに行く場面(記憶が正しければ………)⁉️司馬遼太郎『世に棲む日日』ですね📖⭐️江戸幕府誕生した慶長年間の1600年頃から明治初期まで約270年間、十思公園~大安楽寺一帯の約2600坪、江戸城下の町中で日本橋からも比較的近いと実感🤔