谷中霊園の中にある徳川家第15代将軍 徳川慶喜公の...
グーグルマップとコメントを頼りに辿り着けました。
柵があるため、近くまではいけません。
歴史上のお墓を見ると、不思議な感じがしました。
徳川慶喜公のお墓以外もたくさんあります。
結構な全体の広さです。
水筒など水分補給を持って散策することをおすすめします。
秋晴れの中、上野から少し散歩したくなり谷中墓地に。
徳川慶喜公墓所の案内板があり墓地の中を案内通りにとことこ歩いてみました。
時の将軍だけあって他のお墓より敷地的にも作り的にも厳かで立派でした。
2021.10.10大河ドラマで話題の徳川慶喜公の墓所に行ってきた。
大政奉還後、徳川幕府は終焉後であり、且つ、没時徳川家の将軍ではなかった為、寛永寺や増上寺に埋葬されることのなかった慶喜公。
墓石も、将軍の物とは異なり、石を丸く積み上げた円墳の物となっておりました。
没年1913年大正2年と明治を生き抜き、明治政府により名誉回復も成した後であったが、渋澤栄一が中心となり、谷中霊園に埋葬されたと聞いている。
谷中霊園の中では、最大の墓所の様である。
ちなみに、慶喜公は、上野東照宮に家康公、吉宗公と共に奉られています。
徳川慶喜公のお墓歴史の教科書の雰囲気で、弱々しいダメな将軍みたいなイメージを勝手に持っていましたが、最近の研究では、いろいろと見直されてきているようです。
歴史は勝者が作るものだと思うので、仕方ないですが、とても歴史の1ページを感じます。
日暮里駅から直ぐ、上野公園からもすぐの場所にあるので、散歩がてら、訪れるのにとても良いです。
霊園自体の雰囲気がとても良いです。
近くに渋沢栄一のお墓もあるみたいで、歴史を感じられる場所です。
最後の将軍のお墓‼︎何か可哀想な感じもします。
墓所は外から見るだけです。
墓所内は立入禁止。
近くに慶喜ゆかりの渋沢栄一の墓所があります?
他の将軍様とは別になってるのは知らなかった。
谷中霊園の中に立派な囲いで威厳と存在感で圧倒されました❗周囲も立派な墓石が並び著名人の名前も有りました🎵『散策には適さないかも知れませんが、歴史が好きな方には身近な場所に。
』
墓所の手前の角に立っていた男性に「墓所はここを曲がる」と案内された。
腕章もネームカードも無くてお寺の格好もしていないけれどお寺の方?ご自分の荷物と思われるリュックと水筒をそばのお墓に乗っけて置いてました。
東京台東区谷中、谷中霊園の中にある徳川家第15代将軍 徳川慶喜公の墓所。
左側に慶喜公のお墓と、従位勲一等徳川慶喜之墓の石柱。
右側には慶喜公の正室 徳川美賀子の墓がある。
慶喜公は大正12年11月22日に逝去した。
江戸幕府最後の将軍のお墓は、ひっそりと谷中霊園に眠っています。
墓が所狭しとある谷中霊園。
初めて行くとまるで迷路のようだ。
その中で数少ない柵で囲われた所が慶喜公のお墓。
お参りしようにも施錠されて柵の中には入れない。
それにしても谷中霊園にはいったい何人の人が眠っているのだろうか?
谷根千巡りの最後に谷中霊園に訪問。
徳川慶喜のお墓に行って来ました。
ちょうどボランティアの方がいて、このお墓には正室、側室、子供などが一緒に眠っていて将軍家で初めて仏教に何とかかんとかと30分位話しを伺いました。
2021年の大河「渋沢栄一」と絡んでいるのには驚きました。
徳川最後の将軍のお墓。
大正2年に亡くなったので、すでに明治維新の重要人物はほとんど亡くなっていた頃だ。
その間、静岡に住み続けて、何を思っておられたのだろうか。
ご存じ徳川家最後の将軍徳川慶喜公の墓所が上野の谷中霊園の中にある。
公は徳川家康の再来と期待され幕末に将軍職についたが力及ばず徳川政権に引導をわたすこととなった。
公は鳥羽伏見の戦いで敗れ、逃げ帰ったことにより軟弱な輩と思われているが、決してそのようなことはなく、意志の強い人物であったことがのちにわかった。
今では日本の内戦を防いだ一番の功労者と評価する歴史学者もおり、蛮勇を抑え、謹慎したことが、江戸城無血開城につながったとの評価が定説となっている。
明治政府もその点を評価して、朝敵の汚名をはずし、爵位の最高位である公爵を授けた。
明治天皇の厚意に感謝して墓を質素な皇族の墓(円墳)にするように遺言して没した。
将軍として没していないため寛永寺内の将軍家の墓所には墓をつくらず、谷中霊苑の中に造営した。
(パソコン画)
ひー様のお墓です。
大河の西郷どんでは悪役風に描かれていますが、あの時代誰が将軍になっても同じだったと思います。
最後は西郷とは違い趣味に没頭して余生を過ごしたといいます。
お墓は柵に囲まれていて近くまで行けませんでした。
案内板があるのでその通り行けば分かります。
立派なお墓です。
柵に囲われいますが近くで見る事が出来ます。
説明板があります。
徳川慶喜公のお墓。
お墓は小さなドーム状になっており、これは天皇家のお墓と同型のものらしい。
天皇家と同じであるから、当然、神道のお墓である。
他の徳川将軍のお墓は、仏教のお墓であり、初代家康の日光東照宮の他、寛永寺と増上寺にある。
慶喜公のお墓だけ、他の将軍の墓とは全く異なるのである。
なぜか?慶喜公は、家族と共にお墓に入りたいという願いがあったことから、明治天皇に願い出て、徳川宗家とは別の徳川慶喜家というものを作ってもらった(なお、願いでたのは元々一橋家に仕えた渋沢栄一とのこと)。
これにより徳川宗家とは別にお墓を作ることが可能になり、神道式のお墓としたとのこと。
徳川宗家の一員のままであると、1人だけ別の宗教のお墓を作ることはできないから。
もっとも、谷中霊園のうち、この慶喜公のお墓は寛永寺敷地内にあるのは注意。
あくまでも寛永寺の内部にあるのである。
寛永寺は、「寺」でありながら、内部に神道のお墓の存在を認めているのである。
慶喜公のお墓の隣には正室のお墓があり、その周りには側室のお墓などがある。
慶喜公は、皆が家族であると考え、一緒に埋葬してほしかったのであろう。
なお、慶喜公や正室、側室までは土葬であるが、途中から法律で土葬が禁じられた。
そのため、途中から火葬になったらしい。
以上、ボランティアの方から教えてもらった内容の概要です。
土日だとボランティアの方が色々と説明してくれます。
平日でも午後だとたまにいるらしいです。
趣味で説明に来ているとのことで、谷中霊園の中の案内もしてくれたりします。
せっかく谷中に将軍のお墓あるのに近くに寄れないのが残念です。
探し難い場所ですが、案内に沿って辿り着くことができます。
野鳥の鳴き声もいい感じ♪
名前 |
徳川慶喜公墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
谷中霊園内に墓はございます。
柵に覆われており、近づく事は出来ないですが、時代の転換期を生きた歴史上の人物の墓に感慨深い気持ちになりました。