道を挟んで左側は崖になっていて、大きな防空壕があっ...
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、1862年生まれ、1933年に71歳で亡くなりました。
国際的な政治家、農学者、教育者としての3つの顔を持つ彼は、江戸時代に盛岡で生まれ、「稲之助」という名前を付けられます(のちに改名)。
9歳のとき、叔父の養子として上京して東京市で英語を学び、1877年に札幌農学校に入学。
1883年には再び上京して英語教師として勤めたあと、東京大学文学部に入学しました。
しかし東京大学文学部は翌年に中退、アメリカ・ドイツに留学して、経済学や農政学、英文学などについて学びます。
帰国後、札幌農学校の教授として教育者の道へ。
さらに勤労青少年のための夜間学校「遠友夜学校」を私財で設立、教師は札幌農学校の学生らが務め、無償で教育の提供を行いました。
それからも京都帝国大学や東京帝国大学文学部などの教授として、新渡戸稲造は後進の育成にあたっています。
彼の功績はそれだけではありません。
外交官として国際連盟の事務局次長や太平洋問題調査会の理事長として、世界平和に尽力した国際人の顔も持っています。
晩年は日中、日米の関係悪化改善のために奔走しました。
新渡戸稲造の記した『武士道』は、執筆から120年以上たった現在でも、世界各国で読み継がれる著名な作品です。
新渡戸稲造の大きな功績には、国際連盟事務次長としての外交、『武士道』の執筆、教育者としての顔でた。
国際連盟事務次長となった新渡戸稲造は、「新渡戸裁定」と呼ばれる裁定を下したことで知られています。
これは、スウェーデンとフィンランドの間にあるオーランド諸島を舞台にした領土問題について、3者間で誰かが得をして誰かが損をするという事態を避け、円満解決に導いたというものです。
とはいえ、それぞれの希望をすべて叶えたわけではなく、むしろ「3者全員が希望を叶えられない」という形での解決でした。
しかし結果的には、表面的な希望は叶わなくても、根源的な問題は解決する形で収めることに成功しています。
また世界中で読まれることになる『武士道』では、日本人の倫理観について著述です。
「女性の教育とその地位」という章もあり、女性教育に力をいれていた新渡戸稲造の思想を知ることができます。
教育者としては新渡戸文化学園初代校長、京都帝国大学・東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長と多数の学校の教育にかかわり、「コモンセンス(常識)」の重要性を説きました。
新渡戸稲造の言葉として今も伝えられているものに、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」というものがあります。
これは東京大学文学部に入学した際の面接で発せられた言葉です。
面接官はこの言葉について「どういう意味か」と問いただしたところ、新渡戸稲造は「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及させるために働きたい」と伝えました。
このときの言葉のとおり彼はその後、日本や諸外国間の架け橋となって、国際的な活動を行います。
しかし1933年3月、日本は国際連盟を脱退し戦争へと進んでいくことに。
新渡戸稲造が亡くなったのは、その年の10月です。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。
戦時中、この新渡戸邸跡を右手に見て、道を挟んで左側は崖になっていて、大きな防空壕があったらしい。
空襲の時、江戸川(神田川)沿いに有った簡易式防空壕に逃げた人は全滅。
こちらに逃げ込んだ人は、命拾いしたらしい。
経緯は分かりませんが、新渡戸稲造旧居跡はもうありません。
周囲の反対もあるようですが更地になりマンション建設工事中です。
お札で有名ですね。
数ヶ月前にマンションの建設が予定されていましたが住民の一部の方々が反対したらしく(私の友人の家にはその方々から反対の署名と家の前に反対の旗を掲げて欲しいと言われたそうです。
)、延期になった模様です。
新渡戸稲造さんの家とはいえ、空き地のまま放っておかず公園にしても良かったのではと思いますが…
マンションができるのを住民が反対しています。
人々はお茶クールに行きます(原文)人走茶凉。
付近工事中につき、案内板が撤去されています。
名前 |
新渡戸稲造旧居跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5803-1174 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/ato/nitobe.html |
評価 |
3.5 |
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マンションの一角に看板が設置されております。