慶長とお墓に書かれておりました。
2代目 服部半蔵正成の墓 / / .
忍者ハットリ君で知られる服部半蔵さん。
お名前は、服部半蔵正成です。
因みに2代目です。
松平家の譜代家臣として家康の午廻、御先手、鉄砲奉行などを務め、手裏剣ではなく「槍」を持ち甲冑を着て、「忍者」ではなく足軽を率いて戦った武将です。
多くの一番槍・一番乗りで、敵味方より「鬼半蔵」と呼ばれた方です。
後に、家康より伊賀同心の指揮権を預けられますが、忍者の棟梁ではなく、大将だったようです。
また、家康の命で、嫡男の岡崎三郎松平信康が切腹する際、介錯役を果たせずという逸話がありますが、半蔵が「岡崎三郎信康供養塔」を建立していることもあり、本当なんだろうなと思っています。
非常の忍者というか雨情の武将のように思ってます。
そういう意味では、義理堅いが少しふわっとしたハットリ君が近いのかなと思っています。
なお、服部家は、半蔵門として江戸城にまで名前が残っており、ずっと徳川家に仕えていたように思われますが、正成から2代目後の代で改易され、他家に仕えて桑名藩の家老職家として明治まで続くことになります。
改易されかたあたりも、謀略に長けたニンジャらしくないのが服部半蔵の末裔と思ってます。
東京メトロ四ッ谷駅から程近い「西念寺」にお墓が有ります。
近くには「豊川稲荷東京別院」も有りますので、一緒に行って見ては如何でしょうか?御朱印は「御本尊:阿弥陀如来」「鬼半蔵」と2種類が頂けますよ。
また御朱印帳も「忍者御朱印帳」赤と白の2種類で¥1.500になります。
どうして四谷見附のあたり服部半蔵の墓があるのかと思ったら、最初は麹町の安養寺に葬られたが、のちこの寺が江戸城の拡張工事に伴い、西念寺と改名して当地に移ってきたということらしい。
世界大百科事典には、半蔵の「法名は西念」とあるから、寺名そのものが「半蔵の寺」であることを意味しているようだ。
服部半蔵については、ここでくどくど書かなくても皆さんご存知だろうが、何代も「半蔵」を名乗っているので紛らわしい。
ここに葬られているのは、もっとも有名な2代目の「服部半蔵正成」である。
伊賀を本国とするが、父の代から三河で徳川(そのころは松平かな)氏に仕える。
16歳で三河宇土城の夜討ちに初陣、出生を活かして伊賀の忍びの者数十人と城内に潜入して武功をたてる。
その後も姉川の合戦や三方ヶ原の戦いなどで大活躍し、「本能寺の変」のときには、信長の賓客として泉州堺に滞在していた家康を護衛し、伊賀の峠越えで脱出させた。
家康の江戸入国後は、江戸城麹町口門外に組屋敷を拝領したため、その門は「半蔵門」と通称されるに至った。
名前 |
2代目 服部半蔵正成の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.4 |
服部半蔵は徳川家康の長男信康の切腹の介錯をしました。
そのことを後世悔やんでおりこの寺を建て弔いました。