散歩がてら読むのによかったです。
馬込文士村レリーフ(天祖神社階段脇) / / .
大森駅西口正面。
冬場は綺麗なイルミネーションが見られます!
レリーフだけでなく、軽く当時の事情が書かれていて、散歩がてら読むのによかったです。
階段の石垣に「馬込文士村住人たち」のレリーフが複数設置されていて歴史を感じさせます。
JR大森駅西口の目の前にあり改札を出るとすぐに見える“駅チカ”神社が「八景天祖神社」です。
「文士の銅版レリーフ」が神社にあると言うことです。
大田区は戦前、大森区と蒲田区に分かれていたが、その大森区といえば貝塚と並んで“馬込文士村”など、文豪のまちとしても有名でした。
文士のレリーフは、神社南側の石垣にはめ込まれている。
神社が高台の上にあるので、その高台の左側斜面、神社脇の階段になっている小道にある。
文士村成り立ちの説明プレートや文士村ゆかりの人々のレリーフが、時系列で順番に紹介されていてる。
階段を登りながらゆっくり見ていくと、かつての文士村のことがわかる仕組みになっています。
説明版によると、今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期に多くの文士や芸術家が住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになった。
その中心的存在が尾崎士郎と宇野千代。
作家の広津和郎や萩原朔太郎夫妻、室生犀星、川端康成夫人などもダンスパーティーに参加していた。
関東大震災の後、東京近郊へ移り住む人々が急増し、雑木林や大根畑が広がる馬込一帯も宅地化が進み、景観が大きく変わった。
時代は大正デモクラシー期。
洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールの間で、ダンスホールや麻雀カフェーが大流行した。
流行が去った後1931年(昭和6年)には「大森相撲協会」が発足、池上本門寺の裏手に土俵を作り、相撲大会を開いた。
レリーフがある八景天祖神社は、江戸時代、元禄年間(1670年)に地元の庄屋や年寄り百姓が伊勢神宮に参拝するための伊勢講をつくったのが始まりとされている。
江戸時代は「神明社」と呼ばれていたが、明治期の神仏分離令により「天祖神社」と改名した。
戦争中、空襲で本殿が焼失したが、戦後1953年(昭和28年)残っていた神楽殿を解体、本殿を再建した。
名前 |
馬込文士村レリーフ(天祖神社階段脇) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
文学に疎いのであまりよく分かりませんが、よく目にします。