池上通り(都道421号)に面して記念碑が並んでいま...
大森駅から大森貝塚公園に向かう途中のビルとビルの隙間から線路脇へ降りて行きます。
線路脇のこんなところに⁈という場所です。
貝塚公園とは区もまたぐのですね。
目的は貝塚公園でしたが、こちらも訪れる事が出来よかったかなと思います。
なんとも皮肉の効いた史跡である。
貝塚に対抗して貝墟と名付けたのだろう。
しかし、実際に出土があったのは貝塚であり貝墟は空虚な存在となってしまった。
モースが発掘場所を明示しなかったので、嘘をついた訳ではない。
だが、品川区に対抗して碑を建てたのならば、虚しさを感じずにはいられなかった。
大森貝塚の石碑があります。
TTデータのビルの中。
意外に電車が接近して見れるスポットで撮り鉄にはなかなかオススメの場所かもしれませんね。
エドワードモースはここを見て貝塚を発見したのかところで大森貝塚は発見されて今年で145年だそうです。
まさかここまで海だったなんて。
このあたりまで土地を埋め立ててるなんて人間は凄い鉄道が150周年ですから、それより5年前に発見したということですね。
モースは鉄道に乗って発見したと行ってましたから、時系列的には試運転の時に発見したのでしょうか。
細い道を通って、ビルの裏側へ行くと大きな碑をを見ることができます。
でもあるのはそれだけ。
夏場は蚊に刺されるので気をつけてください。
すぐ横がJR線なので電車の写真が撮れるかな。
企業の敷地の中にあります。
昼間であれば迷うことなくたどり着けると思います。
階段を少し降りたところに説明書きと石碑があります。
大森貝塚記念の場所は2つありますが、こちらは大田区側の碑。
京浜東北線の線路際にあります。
石碑があるだけで、遺跡らしさは感じられません。
線路の脇にあるので、電車を近くで見ることが出来ます。
線路脇にひっそり。
でもモースが発掘したのはここじゃないらしい。
さすがNTTです。
通りに1/2のレプリカと説明文があります。
奥の敷地内に昔建てた本物がありました!
大森貝塚跡です、社会の教科書にも、出てくる遺跡です、良かったです!
ここと大森貝塚遺跡庭園と品川歴史館をセットで行くのがいいでしょう。
電車を観るのにもいい場所です。
ひっそりと石碑があります。
JRの線路沿いなので、電車が大迫力で見られます。
大森駅近く。
教科書にも載る大森貝塚とモース博士です。
発掘調査で出土する遺物から品川区が優勢ではあったのですが、断定ができないため、昭和30年には、品川区、大田区の両方が国の史跡の指定を受けています。
大森駅に近い大田区側は、NTTデータ大森山王ビル南側の園地となった路地を下った(縄文時代の海岸へと下る道です)線路端に碑が立っています。
「大森貝墟」碑周辺も発掘調査が行なわれていますが、土器などの遺物はありません。
ただし、モースの報告書に、南の畑にも貝塚があったが、耕作で破壊されたと記されているので、このあたりにも貝塚が広がっていた可能性はあるのです。
さらに「大森貝墟」碑の文字は、理学博士・佐々木忠次郎の筆ですが、この佐々木忠次郎は、東京大学理学部生物学科の学生だった明治10年、モースの指導を受けて、発掘にも参加。
後に近代養蚕学・製糸学の開拓者なった人物。
その佐々木博士が、ここだったというのが大田区側の地だったのです。
ひっそりとした場所だが、それがかえって良い。
大森貝塚の碑は品川区の貝塚庭園とNTTデータ大森ビル(大田区)沿いの二ヶ所に存在する。
距離的には僅か300m程である。
こちらの貝墟碑は、高さ 2m を超える板碑です。
この様な事態になったのはモース博士が論文に発掘場所の詳細を書かなかった為であった。
その後、貝塚は品川の貝塚庭園で発見されており、そちらが有力とされている。
只、今でも大田区の郷土博物館では大森貝塚の紹介がされているので決着が付いているのか定かで無い。
東海道線や京浜急行線から見える石碑の正体がこれ。
駅から近いので大森駅にこられたらぜひどうぞ。
電車が間近によく見えるスポットです。
碑があるだけです。
電車よく見えます。
名前 |
大森貝墟の碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3777-1070 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/sannou/oomorikaiduka.html |
評価 |
3.6 |
JR大森駅から300mほど北側、池上通り(都道421号)に面して記念碑が並んでいます。
大森貝墟の碑の刻字は「我国初之發見」「大森貝墟」明治10年(1877年)、貝類の研究者だったモース博士が標本採集のため米国から来日、39歳の誕生日に横浜に上陸し、翌日、新橋に向かう汽車の車窓から、崖面に白い貝殻層を発見したと言われているのが「大森貝塚」です。
大森貝塚における発掘調査は、我が国に「科学的」な考古学や人類学を成立させました。
ちなみに、モースは25歳の誕生日に結婚しており、彼は人生の大事な節目を迎える日には自身の誕生日を選んでいたように思えます。
貝塚は、ちょうど大田区と品川区の区界が近く、両区に、それぞれ記念碑が建立されています(「大森貝墟」は大田区側)。
モースの報告書には明確な位置が記載されていなかったために、当初は発掘場所が判然としなかったのですが、昭和59年(1984年)までの調査から、現品川区内の土地における調査を裏付ける資料が見つかり、また、品川区方からは貝層が見つかったにも関わらず大田区方からは見つからなかったことから、品川区側が有力視されています。
しかし、もしかしたら、実際のところ、貝塚は両区にまたがっているなどしていて、単に大田区側の証左(文書や貝層)には、まだ遭遇していないだけかも知れません。
モースは、大森貝塚では、貝殻のみならず、石器や縄文土器、人骨や獣骨を発掘し、それらを体系的に整理してゆく科学的アプローチを日本にもたらし、それを通じて新しい知見が得られています。
また、日本各地を巡り、当時の日本人の文化や生活にも興味を抱き、陶磁器や民芸品、風習を収集し、日本民俗学にも大きく貢献しています。
モースは来日の翌年、東大教授に就任し、当時の東大の外国人教授の大半が研究実績のない宣教師ばかりだったことに呆れ、専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力したとも言われています。
モースが斡旋した教授たちの中には、哲学者フェノロサも含まれています(フェノロサは、当時、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていたことに危機感を抱き、賛否あるものの法隆寺夢殿に安置されていた絶対秘仏「救世観音」を開扉させ、長さ約460mに及ぶ白布を解き、像を露わにさせました。
仏教に帰依し、三井寺(滋賀県大津市)で受戒。
本人の遺志により、三井寺の子院である法明院に分骨されています)。