雰囲気を味わうには、充分です。
品川燈台(縮小模造) / / .
小さな灯台です。
公園内にあります。
「品川燈台」は1969年に6分の5に縮尺してこの公園に模造された。
1870年に点灯された洋式燈台で品川台場第二砲台にあった。
現物は犬山市の明治村に保存されている。
フランス人技師ヴェルニーの作。
フランソワ・レオンス・ヴェルニー 1837年〜1908年1837年12月2日フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。
父は製紙工場を経営していた。
エコール・ポリテクニーク、海軍造船工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した。
フランス海軍は1860年の北京条約の締結後も戦闘が続いていた清の寧波に造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた。
1862年9月建造監督辞令を受けてヴェルニーはマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった。
寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設し、1864年には4隻の砲艦が全て竣工した。
この功績により翌年レジオンドヌール勲章を受章している。
幕末期に江戸幕府はフランスの協力による近代的造兵廠の建設を決定した。
1865年1月フランス側の担当者だった提督・バンジャマン・ジョレスの要請により日本へ派遣された。
江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていたことから、造船所や製鉄所を含む同施設の建設地として横須賀が選ばれた。
ヴェルニーは中国から持参した建設資料と見積りを基に駐日公使のレオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立原案を作成し、2月11日に提出した。
計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルとされた。
1865年2月24日水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、同年4月ヴェルニーは日本を発ちフランスに一時帰国した。
間欠熱や胃病のため故郷で休養した後、8月27日から12月7日まで文久遣欧使節に同行して海軍施設などを案内した。
1866年4月16日マルセイユを出発して6月8日に横浜に到着した。
横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩された。
ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出した。
なおヴェルニーの月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルを超える高給を受け取っていた。
フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設も建設されていった。
1867年3月ヴェルニーは上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘マリーと4月22日に結婚式を挙げた。
1868年戊辰戦争が勃発して3月には新政府軍が箱根まで進出してきたため、浅野氏祐と川勝広運より横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出たが、ヴェルニーは「政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない」として通報艇を待機させながら横須賀にとどまった。
1868年4月神奈川裁判所総督の東久世通禧と副総督・鍋島直大によって横須賀製鉄所が接収された。
この時点で使用した経費は150万8,400ドルに上り、さらに83万ドル以上が必要となったため予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討したが、フランス公使・ウートレやヴェルニーの反対によって建設の継続が決まった。
1868年灯台用機械がフランスから届き、ルイ・フェリックス・フロランに命じて観音埼灯台を建設した。
このほか、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。
各灯台はその後、関東震災で壊れるなどしてヴェルニーの携わったそのままの姿は失われたが、そのうち旧品川灯台だけは、ヴェルニーが関わった当時のものが博物館明治村に移築され現存している。
1869年5月妻の健康問題などのため休暇を取ってフランスに帰り、1870年3月に横須賀に戻った。
1871年に横須賀製鉄所と横浜製鉄所はそれぞれ横須賀造船所、横浜造船所と改名され、9月に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として横須賀に赴任してきた。
ヴェルニーが指導して造船された蒼龍が1872年に、清輝が1875年にそれぞれ進水するなど、横須賀での艦船建造は順調に進んだ。
一方でヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなり、1873年にフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾され、1876年3月3日にヴェルニーは解嘱された。
1875年12月28日ルドヴィク・サバティエとともに川村純義の斡旋で宮内省で明治天皇の謁見を受けた。
1876年1月16日には延遼館で送別の宴が催されて三条実美らから書棚と花瓶が贈られた。
1876年2月26日に12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出し、3月12日に家族とともに横浜港から帰国した。
雰囲気を味わうには、充分です。
名前 |
品川燈台(縮小模造) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
昔はこの灯台の下は花壇ではなく、噴水になっていました。
自分が子供の頃❗平成生まれの子供も水に浸かってしまったり☺️今はその心配もぼうふらの心配もなくなりました。