三田城跡碑の向には堀もありました。
あくまで江戸時代初期までの城跡であって、御家騒動で志摩国鳥羽城から移封された九鬼氏時代の三田藩の藩庁は『城』ではなく『陣屋』なんですよね。
城跡らしく良い感じ。
志摩から来た九鬼氏の🏯‼️三田御池は水軍大名の訓練所‼️郷土史家から「九鬼氏御年譜」を分けて頂いた‼️
石柱と小学生横に池があり少し離れた所に絵図面がありました。
堀や曲輪跡が残ります。
小学校の横にひっそりと碑がありました。
三田城跡碑の向には堀もありました。
今は跡形もありませんが、かつて三田城がありました。
現代では、尼崎を発したJR福知山線が宝塚から峠を越えて三田盆地に入ります。
そのまま北上すると丹波篠山に至ります。
つまり三田は摂津と丹波丹後を繋ぐ戦略重要地点です。
ここに城を構えたくなるのも当然です。
城の跡地には、現在は県立有馬高等学校と私立三田小学校が建っています。
城跡に建っている学校は全国的にもたいへん多いのですが、学校を建てるのに十分なまとまった平らな土地が城跡の曲輪くらいしかないという事情があるからですね。
三田藩の殿様は、九鬼家でした。
九鬼家は、戦国時代には鳥羽を本拠地とし、熊野水軍の中心として活躍しましたが、家光の時代に内陸部の三田に転封され、水軍の伝統を失うこととなりました。
が、13代藩主九鬼隆義は開明的な考えの持ち主で、福澤諭吉を通じて藩政改革を行なったり、貿易商社を成功させたり、最先端の洋学を取り入れつつ人材育成に意を注いだ結果、三田藩からは有能な人材が多数輩出されることとなります。
三田城跡碑と堀跡しかありませんが、それでも城郭ファンは見る価値ありと思われます。
近くに旧九鬼家家があります。
お約束で学校のそば 周りのお堀はちょっとそれっぽい。
三田城(さんだじょう)は、兵庫県三田市屋敷町・天神の周辺にあった平城。
築城は南北朝時代に始まるようですが、最終的に三田城主となったのが九鬼水軍で有名な九鬼氏で、志摩国「鳥羽城」から3万6千石にて入封し、そのまま260年あまりを九鬼氏が城主を治め明治維新を迎えているそうです。
規模が小さいので、三田陣屋とも呼ばれているそうです。
三田小学校と有馬高校の周辺に、三田城の遺構として堀、礎石建物、井戸、石垣などが残されています。
本丸跡が三田小学校になっていて、三田城趾の石碑と案内板があります。
二の丸跡は有馬高校の敷地となっていて、本丸と二の丸の水濠、二の丸東側の空堀が残っています。
その他、建物の遺構として近隣にある金心寺に下屋敷表黒門が移築されているそうです。
日本の化学の祖とも言うべき川本幸民や白州次郎らとともに紹介されています。
三田小学校の地下には当時の様子がわかる宝物が保管されているという噂を聞きましたが、発掘調査により見つかったかまど跡が、校長室の床下に保存されているそうです(*^ー^)
第十代藩主九鬼隆国の3万6千石のお城三田城跡・本丸陣屋跡です🙂現在の本丸陣屋跡は三田小学校になっており、この隣の県立有馬高校のある場所は家老や重臣の屋敷があった二ノ丸で、三田小学校横の大池や、小学校の校庭に建てている三田城跡の碑文、有馬高校脇の内堀跡は当時の面影を残しています☺️噂ですが小学校の地下には当時のお城の痕跡が見られるらしいです🙂三田城跡の碑文から坂を下って行くと2階は洋風で1階は和風の九鬼邸があります三田城跡に行く際には立ち寄ってみてください(・∀・)
三田城跡。
主郭のあったと思われる場所は現在小学校の敷地内です。
その入り口に城跡碑がありました。
道路を挟んで向かい側には掘が残ってました。
名前 |
三田城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
街並みをめぐるには説明が書いてあっていいと思います。