知らなかった歴史の勉強になるよね❗
東山道武蔵路跡は、都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡である。
道路の遺構という珍しい遺跡ですが展示・説明板など良く工夫されてると思います。
「東山道武蔵路遺構再生展示施設」都から遠く離れた、武蔵の国に建設された、都と直結した古代官道を見ることで、古代中央集権国家を強く感じ取ることができます。
この官道は、直線道路を強く意識しており、非常に複雑な国分寺崖線の地形を直線道路で突破することについて、そのコース取りと、道路傾斜角度を緩やかにするため、切通し状にする等、よく研究、検討されています。
この再生展示施設は、道路断面を立体的に見せるため、本体は地下に保存し、1mほどかさ上げして再生展示しています。
この遺構に立って北を見ると、国分寺崖線を直線道路で突破する為、切通しにした理由がよく理解できます。
知らなかった歴史の勉強になるよね❗
歩道内 色が違う所が遺構で その間が道だった。
奈良・平安時代に、こんなすごい道があったなんて驚きしかありません。
展示施設からまっすぐ、武蔵路が埋設・舗装されて再現されていますが、当時のスケールを体感できるのは貴重だと思います。
武蔵路の中央くらい(東京都公文書館の前あたり)にも説明版があるので必見です。
私の住む街は武蔵国分寺史跡が点在しています。
中でも東山道は鎌倉街道の道として、いにしえの国分寺のいわば中心をはしる道路です。
鎌倉に向かうためにつくられた、細い切通しに続く趣き深い尼寺跡に辿ります。
先ずは東山道武蔵路を含めた『古代道路』の説明から。
『大化の改新』により、諸豪族の支配から大和朝廷の中央集権国家へと生まれ変わる為には、日本全国に大和からの指令が届かねばならないし、必要ならば迅速な軍事行動もしなければならない。
その為に大和朝廷は全国に道路網を作った。
その1つが東山道であり、東山道と東海道を群馬県大田市~神奈川県海老名市迄を『ほぼ直線』で結んでいたバイパスが武蔵路である。
古代道路の総延長は昭和に策定された第一次高速道路計画並みの約6300km。
江戸時代の主要街道ですら幅員4mしかなかったにも関わらず、古代道路の幅員は12m以上と高規格。
しかも場所によっては30kmをほぼ直線で施工していた。
山があったら切通を作り、沢があったら埋め立てる。
男塾の『直進行軍』並みの直進っぷりである。
そんな道路が奈良時代にあったなんて信じられます!?そんな東山道武蔵路が綺麗に纏まって発掘された場所がコチラ。
同時の道路規模が実感できる様な場所になっております…( *・ω・)ノ。
奈良時代に作られた主要道である東山道武蔵路の遺構であり、ここは発掘時の状態を再生表示している。
なお、路面を掘った状態で表示されているため、一見道路とは思えないかも知れないが、両端の側溝の間が路面であり、道幅の広さがうかがえる。
古代の道路工事の遺跡という見方もありますね。
カステラアンビ🌸✕いいやま感謝🍶国分寺🐔※SADO
今から1300年の昔、当時の都であった奈良と地方を結んでいた幅12mもある国道の規模の大きさを実感できる。
この地点には幅12m×長さ3m程の当時の道路表面形状の3次元レプリカが屋根の下に展示されており、道路の仕様が把握できる。
更にこの地点の南には、当時の東山道の延長400mの区間の真上が舗装された歩道となっており、実際に発掘された道路脇の溝の形状も舗装の色分けにより表示されていて、道路のスケールの大きさを実感できる。
武蔵国の歴史地域。
名前 |
東山道武蔵路跡 遺構平面レプリカ野外展示施設 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)。
発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認され、地下遺構を保存している。
現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存し、谷部へ下る切り通しの部分の遺構平面レプリカを野外展示している。