名前 |
伊波比神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座 伊波比神社(いわいじんじゃ)御祭神 天穂日尊 誉田別尊 大己貴尊境内社 岩崎神社※御祭神は「比企郡神社誌」は天穂日尊・誉田別尊、「神社覈録」「武藏国式内社四十四座神社命附」「新編武蔵風土記稿」は誉田別天皇・天太玉命、「神祇志料」は大己貴尊、「神名帳考証」(延経)は天穂日命と記載しています。
由緒黒岩村 岩井神社 或は岩井八幡とも稱す 村の鎮守にて村民の持祭神譽田別天皇天太玉命 今の神體馬上に弓箭をとる像なり 按に【延喜式】神名帳に武蔵國横見郡伊波比神社と載せ 又【續日本後紀】に嘉祥二年三月庚寅 奉授式武蔵國伊波比神從五位下とあり 是當社のことなるべし土人等は式内の社なること云も傳へざれど 社地のさま老松生ひしげり いかにも古き社と見えたり(「新編武蔵風土記稿」参照)伊波比神社は、吉見丘陵の東端部、旧荒川筋沿いに鎮座しています。
付近には、茶臼山古墳や古墳時代後期の黒岩横穴群があり、現在五百基以上も確認されている一大古墳群の地です。
当地は大化前代、屯倉が置かれるほどの要地でした。
安閑天皇元年(534)紀に、武蔵国の国造・笠原直使主と一族とが国造をめぐり争った結果、朝廷が使主を国造とする裁断を下したことに感謝して、屯倉を奉ったとあります。
その時に置かれた「横渟屯倉」が吉見町に比定されています。
これらのことから、大化前代以来の有力豪族が強大な支配権を有していたのは明らかです。
当神社は和銅年間(708~715)の創建と伝わり、「延喜式」神名帳に収載されている式内社です。
嘉祥二年(849)に伊波比神が従五位下に叙せられ、次いで貞観元年(859)に盤井神として官社に列格されました。
平安時代においても、朝廷からの班幣の対象社として重んじられ、地方の有力社と認められていたことが判ります。
中世の当神社の様子は不明ですが、当地は平安時代末から鎌倉初期にかけて、源頼朝の弟の範頼の所領となり、その子孫が吉見氏として四代続きました。
当神社の東南約600mの地に吉見氏の城館跡があることから、時の為政者により在地信仰の中心として重要視されていたと思われます。
それは社号からも推察されますが、嘗て当神社は岩井八幡宮と称しており、現在も社号額は旧社号のまま残されています。
「風土記稿」に「或は岩井八幡とも称す 村の鎮守にて村民の持 祭神誉田別天皇天太玉命 今の神体馬上に弓箭をとる像なり」と記されていることから、恐らく中世から範頼などの武将達が武運を願い八幡信仰をもたらしたのではないかと思われます軍神として八幡神が勧請された後に誉田別尊が主祭神となった可能性が高いと考えられます。
元来の御祭神は、外の出雲伊波比神社(毛呂山町・寄居町)との関連で、武蔵国造の遠祖を斎い祀る出雲系の神とする説が有力です。
当神社の御祭神を「神祇志料」は大己貴命、「比企郡神社誌」は天穂日尊・誉田別尊と載せていて、出雲系の神を主祭神としています。
現社地の西方の台地は八幡台と呼ばれる旧境内地です。
その地続きの観音山にある観音堂には正観音像が安置されていて、当神社御祭神の本地仏でした。
観音山は吉見村の除地で息障院の所有でした。
同院が応永初年(1394)頃に現在の御所の地に移ったとされ、その際に当神社も現在地に移転されたと考えられています。
明治四十年(1907)には、字立石に鎮座していた岩崎大明神社が合祀されています。
その旧地の荒藺崎は、名が示すとおり旧荒川に洗われた岩壁が残っています。
黒く切り立った岩石があることから、黒岩の地名の由来となりました。
眺望が美しい所に石宮と石段がひっそりと残っています。
(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)「神名帳考証」「神社覈録」「神祇志料」は、式内・伊波比神社を「黒岩村岩崎大明神」としています。
また江戸時代には「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたことから、境内社の岩崎神社のことではないかともいわれています。