この辺りに梶原谷戸と言われる処が有りました。
自然いっぱいのよい場所です。
広くてトイレあり。
緑多き開放感のある公園。
澄んだ空気に小鳥のさえずり。
冬の間トイレは閉鎖されてます(´・ω・`)
この辺りに梶原谷戸と言われる処が有りました。
高速道路と霊園にホーメストタウンで、風景は変わってしまいました。
梶原氏の記録が少ないのには、理由があるのです。
後北条氏がこの地方に勢力を伸ばす前には、大石氏がこの地域を治めていたのです。
大石定久公は、反北条氏だったのです。
梶原政景の母は、大石定久なのです。
梶原政景は、最後まで反北条氏を貫きました。
その為と思われますが、北条氏氏照公が、八王子城を築城してこの山の根地域の領主に成ると、梶原氏の家臣たちも服従するか、梶原政景と共に此の地を去るかの選択を迫られたのでだと思います。
宝生寺と西蓮寺の住職が、八王子城で遷化しています。
住吉神社の神官の小川氏も討ち死にしていますが、その討ち死にした人々の中に梶原氏と覚しき名前が、見当たりません。
神官としての梶原氏は、北条氏の滅亡後に此の地へ戻ったと思われます。
関東管領(上杉憲実)奉行人奉書(「前田家所蔵文書」) 「大石遠江守入道殿(道守・信重) 冶部丞泰規(島田)」東福寺雑掌申す、武蔵国多西郡船木田庄領家年貢の事、寺家知行相違なきのところ、領主等難渋の間、去年応永卅十三(年)十一(月)二(日)重ねて京都より御教書をなし下されおわんぬ。
案文壱通裏を封じこれを遣わす。
ここに平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を拘留せしむるの間、有名無実と云々。
はなはだしかるべからず。
所詮御教書を守り、未進と云い、厳密にその弁を致すべきの旨、おのおのこれを相触れ、寺家の雑掌に沙汰し渡さるべきの由候なり。
よって執達くだんの如し。
応永三十四年五月十三日 冶部丞(花押) 修理亮(花押) 大石遠江入道殿 梶原氏は、梶原景時の孫の景継が家を再興し幕府に出仕している。
その子景家の娘は大石憲重の妻となっている。
また景時の母が横山孝兼の娘であったことなどから多摩地域との関係が深い。
「上杉禅秀の乱」の頃には梶原兄弟(美作守・但馬守)や梶原能登守の三家があり、「鎌倉年中行事」によれば御所奉行の役についている奉公衆である。
梶原美作守は船木田庄由比郷横川村(八王子市元八王子町)に館跡があり、近くの八幡社の棟札によれば、寛正四年(1463)十月二十一日梶原修理亮家景、文明十七年(1485)十月十六日梶原修理亮入道道賢の名前を確認することができる(『新編武蔵風土記稿』元八王子村の項)。
両氏とも同一人物で、美作守の次の代の人物と想定できる。
特に梶原美作守の名は『鎌倉大草紙』などにも見える。
応永二十四年(1417)三月鎌倉府の修理がおこなわれた時、足利持氏は梶原美作守の屋敷に一ヶ月ほど滞在したという。
この村の奥の小字御霊谷に御霊社があり、鎌倉権五郎景政を祖神として祀っており、この子孫である梶原氏の祭神とかんがえられる。
おそらく、武州南一揆の梶原氏の本拠地はこのあたりであったろう。
多摩御陵の周囲の著書辺見敏刀さんは、この裏の田圃が梶原景時の舘跡であるとされています。
名前 |
ホーメストタウン八王子 梶原谷とちの木公園 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
高尾山駅の手前の住宅地の中にある公園です。