寺跡で鄙びた感じがあり落ち着く場所です。
報恩寺跡に広がるのが、由比野です。
今は家が、立ち並ぶ住宅地と成っています。
中学校の頃にマラソンで走った頃の由比野は、扇状地に桑畑があり人家も疎らだったのです。
土器や板碑も出土していました、橋本義夫等の人々が、由井牧跡の碑を建てたのですが、漸く確認出来ました。
由井牧や地名に「二分方・上一分方・下一分方」のあった土地なのです。
由井宗弘、義海上人、天野氏、上杉顕房等や多くの人達が、この地で足跡を残していたのです。
そして、中世の由井郷は、長い間八王子の中心地だったと思われます。
観音堂が、ポツンと残っていました。
戦国流転 由井郷の人々(清水中世史研究所の記事より)熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』の裏面に記載された人々は勧進を取り扱った先達が、覚えのために便宜一筆をもってかきつけたものとかんがえられ、全般の文字の体様から、近世初頭の頃のものかと考えられるようであるらしい。
この人々の大部分は一般民衆である。
其の覚えの中につぎのような記載がある。
「 二貫文 武州多西郡由井郷住人 目黒掃部助 百二十文 関山弥五郎重顕 六百文 右京 」 武州多西郡由井郷は、現在の八王子市大楽寺町・諏訪町・上壱分方町・弐分方町・西寺方町あたりと考えられる。
目黒掃部助は、天正十八年(一五九〇)六月二十三日、八王子城で討死した相即寺過去帳にある、目黒氏の一族とおもわれる。
それにしても、目黒掃部助の二貫文の寄進は大きい金額である。
此の地の有力な土豪であろう。
関山弥五郎重顕は、天文十五年(一五四六)に神戸山法泉寺を開基した関山土佐であろう。
そして、相模原市当麻の地にあった当麻の関所の文書にある関山弥五郎その人であろう。
虎の印判状につぎのようにある。
「 しほ荷弐駄の分、一ヶ月の中、此の如くとほすべき ものなり。
これは家内のつかひ用の義なり。
よってく だんのごとし。
天文五 丙申 八月廿日 関山弥五郎とのへ 」 関山氏は相模国東郡当麻郷(相模原市)の地侍。
伊予国関山の出身になる河野氏の一族と伝え河野通明の次男福良通豊の七男関山民部丞通安は通明の嫡宗と伝える。
一遍上人に従って相模国当麻に時宗の無量光寺を開くと土着した。
子孫は伊勢宗瑞の時から仕え飛脚役を世襲して務め、当麻宿の宿場管理と当麻関所の支配を任されていた。
永禄四年(一五六一)と推定されている、武田信玄が甲斐郡内領上野原の領主加藤丹後守に送った書状に「(上略)然者氏康由井在陣、敵味方之間隔三十里之様(下略)」(諸州古文書甲州一)とある。
北条氏照公は、由井源蔵を称して、その名跡を継いだのです。
由井地方の武士たちを味方にする為の父氏康公の思惑だったのでしょう。
由比本郷は中世の船木田庄内の郷村で、由比は由井・油井とも記される。
「延喜式」に武蔵国の四牧の一つとしてみえる由井牧の故地で、八王子市西寺方町・上壱分方町・二分方町・大楽寺町・四谷町・諏訪町の一帯と推定される。
建長八年(一二五六)七月三日の将軍家政所下文(尊経閣文庫所蔵『武家手鏡』)によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」などの所領を安堵している。
この所領は永仁二年(一二九四)景経の子頼政に譲られた。
やがて、その子孫の顕茂・景広兄弟の間に、由井本郷をめぐる相論が惹起し、正和二年(一三一三)五月二日幕府は両者の和与を承認した。
それによれば由井本郷のうち三分の一が弟景広に譲られ、三分の二が顕茂の所領となった。
また文保元年(一三一七)六月七日の顕茂・景広兄弟とその姉妹尼是勝との和与を承認した。
関東下知状(天野文書)によれば、本来この由井郷は武蔵七党の一つ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。
鎌倉時代の女性はこの相論から知れるように所領を相続する権利を持っていた。
お袋様という言葉はこの頃、母親が領地の証文を袋に入れ持っていたことにからによるという。
天野肥後三郎左衛門尉顕茂と同次郎左衛門尉景広と相論す、亡父新左衛門入道観景の遺領武蔵国由比本郷、遠江国奥山の郷避前村、美濃国柿の御薗等の事、右の訴陳状につきてその沙汰あらんと欲するの処、去月廿八日両方和与畢んぬ、顕茂の状の如くんば、右の所々は、亡父観景の手より去る正応二年三月卅日顕茂譲得の処、景広は徳治三年六月十七日の譲状を帯すと号し、押領せしむるの間、訴え申すにつきて、訴訟つがえ、相互に子細を申さずといえども所詮和与の儀を以て、顕茂所得の内の由比本郷参分の壱(ただし屋敷・堀ノ内等は参分の二の内につく)美濃国柿の御薗半分を景広に避渡し畢んぬ。
次に正応の譲状に載する所の景広の遠江大結、福沢幷長門国岡枝郷等(中略)景広分たるべし云々者、早くかの状をまもり、向後相互に違乱なく領知すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し。
正和二年五月二日 相模守 平朝臣(北条凞時)(花押)天野肥後左衛門尉顕茂法師(法名観景、今ハ死去)女子尼是勝(本名尊勝)の代泰知と兄次郎左衛門尉景広の代盛道、同じく弟三郎左衛門尉顕茂の代朝親等相論す、由比尼是心(観景姑)の遺領遠江国大結福沢両郷、避前村、武蔵国由比郷内田畠在家(源三郎作)の事右訴陳状につきて、その沙汰あらんと欲するの処、各々和平し畢んぬ。
朝親の去月廿五日の状の如くんば、由比尼是心の遺領武蔵国由比本郷内源三郎屋敷(顕茂知行分)、遠江国避前村等中分の事、右是心の養女の尼是勝訴訟につきて、訴陳をつがえ、問答といえども、和与の儀を以て、源三郎屋敷(打越の地を除く定)炭の釜一口のうち三分の一幷避前村等半分(巨細は目六に載せ畢んぬ)尼是勝にさけ与うる者なり。
ただし避前村の代官屋敷は顕茂分たるべく、同村内中辺名の代官屋敷は、是勝分たるべし、若しかの屋敷、避前屋敷の処に交量すれば、不知分に於いては顕茂の分を以て入立つべし。
又諏訪社(大宮と号す)毘沙門堂は、顕茂の分たるべし。
八幡(西宮と号す)十二所権現は是勝分たるべし。
次に源三郎屋敷内の社一所(二十四宮と号す)は顕茂たるべし。
御堂壱所(是心の墓所)は、是勝分たるべし。
然れば即ち顕茂文の注文と云い是勝の注文と云い、後証のため両方に加判せしむる所なり。
自以後は彼の状に任せ、相互に違乱なく領知すべし云々。
泰知同状の如くんば、子細同前と云々。
盛道同じく廿七日の状の如くんば、由比の尼是心の遺領武蔵国由比本郷のうち源三郎屋敷、田畠、在家幷びに炭釜(景広知行分)遠江国大結、福沢両村等中分の事、右是心養女尼是勝訴訟につき、訴陳をつがえ、問答を遂ぐといえども、和与の儀を以て源三郎屋敷内田畠在家景広知行分幷びまた大結、福沢半分を是勝にさり渡す所なり。
但し今は坪付以下委細の目六なきの間、地下の注文を召し上げ、後の煩いなきのよう、来月中に是勝方に書き渡すべし。
次に是心跡の炭釜一口のうち六分の壱は是勝分たるべしと云々。
泰知同状の如くんば、子細同前此の上は異儀に及ばず、早く彼の状に任せて沙汰致すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し
名前 |
報恩寺跡・観音堂 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
寺跡で鄙びた感じがあり落ち着く場所です。
お堂の裏手に祠があります。