千葉常胤が源頼朝にここから湧き出る水を使ったお茶を...
ぶらぶら千葉氏の歴史めぐりで立ち寄りました、ここは、千葉常胤が源頼朝にここから湧き出る水を使ったお茶を献上した地で有名です。
千葉常胤公を、推し、燃ゆ。
しかしここは、徳川家康公に軍配。
案内板の絵の様な光景はあったのか。
平安時代ではお茶は、都の皇族や貴族、高僧たちにしか嗜みの無いかなりの高級品であったので、こんな辺境の田舎武士団には、アウトオブ眼中であっただろう。
しかし、江戸時代初期の亥鼻山周辺には、大御所徳川家康公の御殿があったというのは、有力であるらしい(推定、現・千葉地方裁判所)。
この場所は 「お茶の水」と呼ばれています。
もともと湧水があり、 泉の側には不動明王が祀られていることから、「不動の泉」と いう呼び名もあります。
湧水はかなり前に枯れてしまいましたが、 ここが 「お茶の水」 と呼ばれるようになった由来として、その名 にちなんだ二つの伝説が伝えられています。
一つ目は、源頼朝にまつわる伝説です。
源頼朝は治承4年(1180) 相模国石橋山 (神奈川県小田原市) の合戦で敗れた後、舟で安房国にわたり、千葉氏を始めとする房総の武士団に支えられて勢力を盛り返し鎌倉に入りました。
その道中、千葉常胤の本拠地に足を止めた源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げたというものです。
平安時代初期には国内でお茶の栽培が始まっていますが、 まだ一般に普及していなかったため、後の時代に作られた話の可能性もあります。
二つ目は徳川家康にまつわる伝説です。
慶長19年(1614)、 徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。
それから60年後の延宝2年(1674) にこの地を訪れた徳川光圀 (家康の孫、 水戸黄門として知られる) も 「古城の山根に水あり、『東照宮 (徳川家康の神号) お茶の水』 と伝う。
右の方松の森あり、 『東照宮御旅館の跡なり」と云う。
」と書き残しています。
この湧き水は台地上の城を守る人には大事な水源であり、また街道をいく人や馬 にとって喉を潤す場所でもありました。
江戸時代の関東地方では広く不動尊に対する信仰が庶民に広まり、 人にとって大 切な水を守る水神信仰と結びつきました。
不動尊信仰の場として、 千葉県では成田 山新勝寺 (成田市) がよく知られていますが、 ここに不動明王が祀られているのは、 その大切な水を守るという考えからだと解釈されています。
【現地案内板より抜粋】亥鼻城を下った道路脇に、看板が無ければ素通りしてしまう位の存在感で、ひっそりと井戸跡があります。
現在は枯れていますが此処の湧水で1180年千葉常胤が源頼朝を饗した説と1614年徳川家康が此処で水を飲んだと2つの伝承が有ります。
亥鼻城から降りて行った交差点手前。
千葉氏が代々「産湯」に使ったという井戸(今は枯井戸?)。
千葉常胤がこの水で源頼朝に茶を献じたて以来、「お茶の水」と称するようになったそうです。
良い水が出たらしく、後に御茶の水と呼ばれる様になったとの事。
桜の木越しの階段。
いつもキラキラ。
千葉一族は代々この水を産湯水に使用したといい、千葉常胤はこの水で源頼朝に茶を献じたという伝説が残っている。
現在は湧き水も絶えている。
名前 |
お茶の水 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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千葉常胤が源頼朝に茶を差し上げたとの謂れがある湧水。
奥に石像群あり、不動明王、庚申塔とおぼしき青面金剛がいます。