名前 |
国分寺街道の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.5 |
府中という名は、国府の中心という意味で、国衙と呼ばれる役所が置かれ、国司という役人が朝廷に成り代わりその国を支配したそうです。
室町時代の中頃に太田道灌が江戸に城を築くまでは府中が武蔵国の中心だったそうです。
ちなみに、武蔵国は南は川崎辺りから北は寄居辺りまで、西は八王子から東は隅田川までの範囲だった。
国分寺は奈良時代の終わり頃に聖武天皇が全国60余州に建立させた寺で、正式名称は❬金光明四天王護国乃寺❭というそうで、その中心となる大和の国分寺が奈良の東大寺なんですって。
実は、同じ時に聖武天皇の皇后も(国分尼寺)を悪い言い方をすればおねだりしていたそうで、府中を挟んでこの二つの寺が築かれたそうで、聖武天皇はあわせて120以上の寺を全国に造ったらしい。
当時の仏教は国家仏教とされ、天皇が建てた寺は国営で、貴族が建てた寺も準国営扱いとなり、僧侶は全員が国家公務員のようなものだったそうです。
さらに、仏教も衆人救済ではなく、国家鎮護を願うもので、法華経や般若経、金光明経以外の仏教は禁じられていたそうです。
天皇も暗殺される時代だったし、貴族らも権力を守るには国家が安泰なのが一番だったんでしょう。
国分寺の規模は大仏殿が無い東大寺そのものだったようで、一寺あたりに配置された僧侶の数は50人。
聖武天皇は少しずつ建立していったわけではなく、一気に建立させたそうです。
そのために朝廷の財政は火の車となり、さらに、庶民は国家鎮護より生活の安泰が大切だから、仏教より神社がだったから、こんなバカげた寺の建立に税金が遣われたことに腹をたてた庶民が朝廷離れを起こし、聖武天皇は天皇の座から引きずりおろされたそうです。
平安時代になると仏教は国家から引き離され、当然、国の援助がなくなったために廃寺に追い込まれていったそうです。
聖武天皇は金光明経を盲信していたため、金光明経を広めるのが目的だったから、いわゆる、我々が知る寺ではなくて金光明経の学問所だったようですね。