清水中世史研究所の最初頃に、訪れて記事を書きました...
大石宗虎屋敷のさるすべり / / / .
名前 |
大石宗虎屋敷のさるすべり |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
清水中世史研究所の最初頃に、訪れて記事を書きました。
場所を探すのに苦労しました、当時は位置など直ぐにわかったのですが、老人になって位置などの感も衰えたのだと思い知らされるのです。
墓地が追加されて、無縁のお墓が動かされて居ました。
季節が違うのでしょうか?百日紅は、枯れて居る様に思われます。
私の清水中世史研究所の記事より参照です。
『大石宗虎屋敷とサルスベリ』(八王子市松木一四九一)「ここは松木台と称し、永禄(一五五八~一五六九)の頃、大石信濃守宗虎が居館を構えていたと伝えられている。
宗虎の養子である照基がここを利用したかは定かではないが、屋敷自体は定基が没した元亀二年(一五七一)から八王子落城の天正十八年(一五九〇)の間に廃されたと思われる。
また滝山城にある信濃郭も信濃守すなわち宗虎、あるいは照基の屋敷があったと考えられる。
宝鏡印塔の前のサルスベリ(百日紅)は、この松木台の屋敷が機能していた頃のものと思われ、樹齢四〇〇年、根もとの周囲三メートル余、樹高十五メートルと近在にもまれな巨木である」。
この屋敷内に墓地があり、そこに、忘れられたような小さな墓石が建っている。
他から移したものと言われるが、宗虎夫妻の法名を併刻してある。
永林寺過去帳とは少し異なるが次のようである。
蓮心院法性開華大居士(宗虎) 法蓮院春応妙華大禅定尼(宗虎室) この墓石の左側面に「御法名天正七□□…」と微かに判読できる。
これによれば、照基の養父宗虎はこの年次に没したと思われる。
照基が信濃守を称するのが天正五年頃であり、家督を譲られたのはこの頃であろう。
また、『新編武蔵風土記稿』多摩郡城野村(八王子市)譜願寺の条には開基大石信濃守宗虎の墓があると記し「五輪塔の石塔なり、宗虎は滝山城の城主大石源左衛門定久の嫡子にて初は内記と称せり、近郷由木に居館を構ふ、元亀二年六月八日に没せり」とあり、もしくは定基と同人物か。