が後に甲斐と虎と呼ばれた武田信玄(晴信)を上田原の...
信長の野望等々を知る方に信濃の戦国武将と聞けば過半数が真田氏を挙げると思います、が後に甲斐と虎と呼ばれた武田信玄(晴信)を上田原の戦い・砥石城の戦いで敗戦に追い込んだ武将として村上義清を忘れてはいけないと思います。
善悪ではなく、当時の信濃国の住民にとっては甲斐武田氏は侵略者であり、侵略者から郷土を守ろうとした村上氏は正に信濃の英雄と言っても言い過ぎでは無いと思います。
江戸時代に建てられた供養塔ですが、名将を偲ぶには最適な場所です。
坂木五千石の奉行となった長谷川安左衛門利次が建てた村上義清の墓所(供養塔)です。
明暦3年坂木の名家遺跡の亡失を憂えた利次は、義清の子孫・義清の家臣の子孫らにはかり、自ら施主となって義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって建立しました。
天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れと2度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。
しかし、天文22年(1553年)葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けることによって自落した。
義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。
これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。
この年は葛尾城の裾を洗う千曲川に大洪水(江戸時代には64回の洪水が記録され4〜5年に1回の割合で被災していた勘定)があったと伝えられるが戦況にどのような影響があったかは不明である。
村上義清は信濃四大将のひとり。
信濃四大将とは・・・信濃守護小笠原長時 、村上義清、諏訪頼重、木曾義康村上一族村上義房・村上義満・小島兵庫助・村上信濃守日長・内山清宗・村上家家臣団島津貞忠・保科左近将監・蘆田信守・屋代忠向・石川長昌・石川長高・屋代政重・屋代基綱・出浦国則・出浦清種・出浦清正・清野清秀・清野清運・室賀盛清・楽岩寺光氏・若槻信寿・若槻清尚・夏目次郎太郎・成沢且親・笠原清繁・薬師寺清三・小野沢清長・赤池修理亮・中沢国季・岩下次郎・石黒弥五丞・鷺田掃部充・金井原弾正・丸田市右衛門・鶴田勘由左衛門・武井郷右衛門・久保仁兵衛・多知三多兵衛・小島重成・雨宮正利・牧島基永・小沼川舎人亮・会田清幸・井上清忠・原車之助・横田監物・津久左衛門・斎藤朝実・宮下政福・尾張部三郎・押鐘民部・香坂忠宗・小林平四郎・依田新左衛門・布下雅信・山田国政・小岩岳盛親・三木新左衛門・長谷倉熊之助・安中一藤太・小田井信親・小田井治部左衛門・田口長能・知久頼元・知久頼龍・知久頼氏・木堀将監・大日方長政・小川貞綱・村上義満・小島兵庫助・村上信濃守・内山清宗。
田町十王堂に隣接し幟も出ているので場所は分かりやすい、しかし意外とひっそりとそれは有りました。
坂城町の象徴でもある村上義清、扱われかたが少し寂しい気がしました。
明暦3年(1657)、越後高田藩の所領・坂木五千石の奉行となった長谷川安左衛門利次は、坂木の名家遺跡の亡失を憂え義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を建立した。
名前 |
村上義清公墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
武田晴信を二度に渡り撃退した事で有名な村上義清公の墓所の一つ。
越後で没したとも云われ、この場所以外にも墓所とされる所がある。