長篠の戦いで敗れた武田方の武将の墓です。
馬場美濃守信房の慰霊碑 / / .
長篠城址史跡保存館から国道に出て左方向へガススタンド手前左側に舗装切れた少し農道へ馬場信房公、武田勝頼の退去を見届けてから討死とか設楽原歴史資料館からは10分近く車で掛ります。
武田四名臣の1人馬場信春(信房)公のお墓です。
長篠、設楽の戦いで殿を務め無事勝頼を退却させた後に壮絶な討死したとの事。
近くに中央構造線もあるので良ければセットで見に行かれる事をおすすめします。
長篠の戦いで武田方の殿(しんがり)を務めた馬場美濃の首塚です。
長篠は戦国期で重要な戰のあった場所だけあってたくさんの史跡がありますが、桶狭間と違い山間部の場所にあるため、当時のまま残ってるであろう様相を呈してます。
この墓も川沿いでまわりは畑に囲まれ、激戦の末慌てて埋めた感が想像できる場所にあります。
長篠城址のハイキングコースにもなっており、歩いて散策されるのも良いと思います。
長篠設楽原合戦の史跡のひとつ。
武田四天王のひとり馬場信房公の墓と伝わります。
実はもうひとつ別の場所(鮎滝方面)にも馬場信房公の墓が伝わり、そちらの墓にはさらに馬場信房公討死の地の案内図もあります。
これ等含めて巡るとより一層感慨深いでしょう。
武田四天王馬場信房(信春)の墓。
長篠設楽原の合戦のもの悲しさの象徴。
トップが独断で突き進んだり信じる者を間違えると失う物が大きく取り返しのつかない事となる・・・。
長篠設楽原における武田家の多大なる損失の一つ。
馬場級の優秀過ぎる忠臣を何人も失った武田家は滅亡へとひた走る訳で。
武田勝頼の生い立ちから考慮した儚さも解るのだが、長篠においてはあまりに無能だった。
武田方の武将、馬場美濃守信房(信春)の首を埋めたといわれている場所です。
『甲陽軍鑑』によると、信房は群がる織田軍の兵に「馬場美濃にてあるぞ。
討ておぼえにせよ」と落ち着いて声をかけ、刀に手をかけもせず、討たれたそうです。
戦国武将らしく切り死にするまで戦うということもできたと思いますが、なぜ無抵抗のまま討たれる道を選んだのでしょうか?覚悟の最期だったということでしょうか?この時の美濃守の胸中や如何。
そして『信長公記』には「馬場美濃守、手前の働比類なし」とあるそうです。
敵方からも賞賛される名将の御霊に合掌。
設楽原で織田・徳川連合軍の鉄砲隊に完敗して退却する武田勝頼を守り殿(しんがり)として敵に立ち向かった馬場美濃守信春(信房)は、奮戦の末、勝頼が無事に退却するのを見届けてから、自ら首を討ち取らせたと伝えられています。
お墓は畑の中にひっそりと佇んでいますが、よく手入れされています。
長篠城跡からほど近くです。
設楽原へ長篠城から向かう進行方向でした。
入り口はアパートの横から入ります。
見落とされないように。
地元の方々が丁寧に整備なさっているのが分かりました。
武田軍四天王の一角であり、臨んだ戦は70余、傷一つ負わず「鬼美濃」の異名で知られる馬場信春。
設楽原の合戦で武田軍は織田・徳川軍に大敗。
無敵の鬼美濃はしんがりを務め、主君勝頼を逃がした後に時間稼ぎとして敵陣に突撃したそう。
この敗戦をきっかけに武田家は衰退が著しくなり、まさに「終わりの始まり」となりました。
この界隈は、馬場信春の他にも内藤昌豊や山縣昌景、原昌胤、土屋昌次(皆、名前の一文字目に「昌」がつくのはたまたま?)真田信綱など、武田の名臣達の没碑があります。
なまじ本拠の甲斐・信濃を廻るよりも奥三河にこのような碑が密集しているのは、悲しいですね。
馬場美濃守信房のお墓です。
馬場信房は信虎、信玄、勝頼の3代に仕えた武田家の宿将です。
長篠の戦いで大敗を喫した武田勝頼を甲州に落ち延びさせるために、馬場美濃守は殿を引き受けてこの地で迫り来る織田軍と戦い壮絶に散りました。
ここは馬場信房の首印が埋めらえれた場所と伝えられています。
名前 |
馬場美濃守信房の慰霊碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
武田家の重臣であった馬場美濃守が眠る場所、周囲には畑が広がる静かな場所だ。
人も多く訪れる場所ではないので、ここではゆっくり物思いに耽ることができた。
なお、お墓には駐車場はないので、車で来た場合は周辺の店舗の駐車場を利用させてもらうしかないかもしれない。
お墓の側にある駐車場は、別の施設の専用駐車場になっている。
また、近くにはマンションもあり広い駐車場があって間違いやすくなっているので、そこに駐車しないように注意しておきたい。