湖へ向けての眺めが良いです。
浜名湖西岸の湖西市入出から浜名湖に突き出した半島状の土地に東西二つの城跡があります。
高山の城跡を宇津山古城、正太寺鼻の城跡を宇津山城と呼称されています。
山上は浜名湖の美しさを堪能できる眺望スポットになっています。
ふもとの正太寺から登りましたが、車で一番手前の曲輪まで行くことができます(お墓)。
夏に行ったこともあり、城郭近辺はあまりにも草が生い茂っていて、かなり苦しかったです。
何とか主郭まで辿り着いたところ、石塁がぐるっと取り囲んでいました。
説明書よりーーー宇津山(うづやま)城跡宇津山城は、永正三年(一五〇六)から大永七年( 一五二七)頃にかけて今川氏によって、正太寺の裏山を利用して築城されたとされる(①)。
宇津山城は、三河国への侵攻をはかる今川氏が、浜名湖を利用した舟運の支配と三河国と遠江国との国境を見張る目的で築いた城である。
永禄三年(一五六〇)、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると、反今川を明らかにした徳川家康の遠江国への侵攻を防ぐために改修が行われ、高山(②)に物見ができる簡単な曲輪が造られた。
その後、宇津山城をめぐって今川方と徳川方の攻防が繰り広げられる中で今川方の最前線基地として整備されるが、永禄十二年(一五六九)徳川方の酒井忠次の攻撃によって落城した。
そして今川氏の滅亡によって三河·遠江国境の押さえとしての意味合いが薄れ、宇津山城の戦略的地位は低下した。
ところが、元亀二年(一五七一)、武田信玄と徳川家康との対立が表面化すると、再び宇津山城の戦略的地位が注目された。
国境北部から侵入する武田軍に備えるため、西に偏った防御ライン深く掘り込まれた堀切、湖岸線まで達する竪堀など、宇津山城最後の構えが整備されたのである。
しかし、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで武田軍が敗れると宇津山城の戦略的意味合いも失われ、宇津山城の歴史は閉じられた。
湖西市教育委員会。
浜名湖西岸の城跡です。
正太寺の境内にあります。
今川氏が築城し、滅亡後は徳川氏が治めました。
曲輪や土塁など良好に残るようですが、10月でも草深く、奥までは確認できませんでした。
今川と徳川が争った場所です。
宇津山城からは浜名湖対岸の堀江城も正面に見えますが。
浜名湖の水運と遠州/三河の境にある戦略拠点だった事が分かる場所です。
かつての今川氏の重要拠点であり、1568年(永禄11年)12月、徳川勢に攻められて落城した城を守っていた小原鎮実は城に火を放ち、船で浜名湖の対岸まで逃げ延びたと言われている現在は、浜名湖の美しさを堪能できる眺望ポイント。
名前 |
宇津山城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
053-576-1230 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.4 |
夏は草木が生い茂りとても道が歩けたものではありません。
主郭らしき場所に石積みがありました。
実際の山城の規模は相当に広かったようです。