20年前よりきれいになっていて良かったです。
地元の人達に大切にされている神社と伺いました 幹線道路沿いに急勾配の階段があり、なかなか見つけづらい坂道の神社です 自転車で市街地まで走り過ぎてしまったりして… とても歴史ある神社のようです 境内からの石畳が社まで続きます その間の細く長い昇り坂は、少し歩くと僅かな階段があり、又歩くと階段と、徐々に社に近づいて行きます 古の格式が伝わってくる、心にずっしり入り込む景観です 400年程前、この高台からの景色や状況は、どういうものだったのでしょう 神社仏閣には御神木と言われる大樹が必ずありますが、こちらの大樹は、幾本も同等の高さで聳えていました。
時平にまつわる物語に 思いを馳せて三社めぐりました。
パワーを頂いた様な気がしましす。
彫刻など古き良きものはそのままで、20年前よりきれいになっていて良かったです。
成田街道といわれる国道296号線を、船橋から西に向かって走り、特になんの案内板もない四辻を右折すると、ある。
境内には地区の集会所も設けられ、神社はよく整備されている。
殿舎の四方の壁面には、なんの物語なのかは当方にはよくわからなかったが(ひとつは義経東下りではないかな)、見事な浮き彫りが施されている。
資力がなければ建築も維持もできないだろう。
氏子のみなさんの崇敬の念の篤さがよくわかる。
それにしても「時平」とは? おそらく「藤原時平」のことだろうから、ちょっと不思議である。
この人は、のちに「天神様」として祀られるライバル菅原道真を、讒言を以て右大臣の地位から追い落とし、筑紫の大宰府に配流されるように仕向けたため、そのタタリで早死にしたと信じられている。
この神社が創建されたであろう江戸時代には、歌舞伎の影響もあって庶民には陰険な「悪人」と見られていたはずだ(初演は1746(延享3)年だから、創建とどちらが早いかはわからないが)。
それがなぜ下総の内陸のこの地に祀られているのだろうか?ネットを漁っていたら、この神社からほど近い「高津観音寺」に、文久3(1863)年に住職が記した「高津観音堂本尊縁起」なるものがあるという。
モダンな口語文だから記載者のリライトだと思われ、原文にも当たれないからいろいろ保証できないが、とりあえず引用する。
「平安前期、菅原道真を追放した祟りで亡くなった藤原時平の妻と第五息女高津姫は、東下りをして下総の久々田に漂流した時、舟が石となった。
/姫は三山から当地に落ち着き、花の洛の昔を偲び亡父を慕いながら当地で一生を終えた。
彼女が守り本尊としていたのが十一面観世音菩薩で、高津観音寺に安置された。
/高津姫は高津比咩神社に祀られ、当地の産神様となった。
」ということで、当地には時平にまつわる伝説があるようだ。
時平は歌舞伎『菅原伝授手習鑑』の中でも、神格化された菅原道真と同様に、霊的な性格が与えられている。
また、「高津姫」は「多岐都比売命(タギツヒメノミコト)」と同一視されたともいわれるから、当地の人々としては貴人とその子を憐れむ意味でも、神社を建てたのかも知れない。
由縁がいろいろ謎めいていて魅力的です。
お社も、小さいけれど彫刻が見事で、素敵な佇まいです。
もろ地本。
お賽銭は、町内会費に。
お賽銭しがいがある。
御祭神:左大臣藤原時平。
平安時代初期、菅原道真を太宰府に左遷させたが、道真の死後約1年後に死去し道真の祟りと言われる。
当社は、千葉県八千代市にある時平神社四社の中では最古ではあるものの、慶長15年(1610)の創建であり、なぜ江戸時代になって時平が祀られたのか由緒は不明らしい。
この辺りは、藤原北家の荘園があったが、藤原時平の子孫が深山(三山)に住み着いた後二宮神社の神主になった、また、高津には時平の妻と第五息女(高津姫)が住み着き、死後、高津姫は高津比咩神社に祀られたという伝説も伝わっている。
小さくてゴチャゴチャっとした感じはありますが、なかなか立派な彫刻が施されていて、一見の価値はあります。
ただ車は停める場所がなさそうです。
良いですね,こういう彫刻の本殿のある神社。
自分のように彫刻が好きな者にとっては良い参拝記念になります。
公民館が有ります。
下総三山の七年祭り参加社 役割(長男)
小さいが見処のある神社。
小さいが見処のある神社。
名前 |
大和田時平神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
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雰囲気いいですよ。
天気の好い日和に行くと、大木もありますし、心地良いです。