とても、厳かで有り難みがありました。
いわき駅から、駅から散歩で訪問。
鳥居のそばにある急な橋は、雨の日は滑りそうだ。
門構え、社殿も立派。
社務所で御朱印もいただけた。
書き置き対応かと思ったが、直書きだった。
いわきの神社マップなるものも一緒にいただいたた。
輪王寺宮が通過した路程を調査していてお伺いしました。
無料で戴いた『アマビエお札』のおかげで未だコロナヴィールスにかかりません。
本当にありがとうございました。
とても清々しい境内でした。
入口の太鼓橋は雨の日は気をつけましょう😅駐車場もあり平坦で参拝し易いです。
御朱印も頒布頂きました。
ありがとうございました。
小さい頃から遊び場でもあり、学校を抜け出し、サボった場所。
好きな子に相談事と嘘ついて、結局は告白できなかった場所。
自分の事ではないですね。
私が飯野八幡宮の詳細はGgッて頂き…イチオシを!1 結婚式を挙げると、二人の夢や希望。
夫婦の誓いも、感じ受け止め方も変わってくるかも。
良い思い出になるよ!きっと!巫女さんもいるよ!予算は式場と変わらないかな?披露宴はなしでも、結婚式くらいは無駄じゃないと思います。
※私は結婚式をこちらで挙げました。
2 流鏑馬3 たかつき保育園4 豆まき今回はこれまで。
2、3、4について、正確な歴史や解釈については、ラトブの図書館に郷土史料や専門書が有りますので、参照学史ください。
厄年の時に、お祓いで伺いました。
境内が広く散策しやすいです。
御朱印も頂けます。
駐車場はありますが、10台程度です。
お正月三が日などのお参りは、大変車が混雑しますので、ご注意ください。
福島県いわき市平字八幡小路に鎮座する飯野八幡宮です。
御祭神は品陀別命、息長帯姫命、比売神。
源頼義が康平6年(1063)に京都石清水八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられます。
当社は、本殿・若宮八幡神社本殿・仮殿・神楽殿・唐門・楼門・宝蔵と多くの建造物が重要文化財に指定されています。
有り難く、”飯野八幡宮”の御朱印を頂きました。
コロナ禍の混雑を避けてお詣りに行って来ました。
境内には人影が無く毎年の人手の多さを思うと寂しい限りでしたが帰り道に境内に引率された幼稚園児達が走ってきて先生の号令で元気良く体操を始めるのを見てチョット泣きそうになりました。
子供達も不自由な日々を送っている事でしょう。
早く心から友と、親と、親しい人達と、手を繋いだり、バグをしたり、笑顔溢れる日常が来る事を願って止みませんでした。
初詣は、飯野八幡宮なのだが、もう何年になるだろうか半世紀以上にはなるかと、おもいます。
車のお祓い、厄祓い、子供の七五三にと、何かとお世話になっております。
旧城跡地域にある神社。
こちらでは毎年秋に流鏑馬神事が執り行われます。
福島県:歴史・観光・見所より飯野八幡宮は福島県いわき市平八幡小路に鎮座している神社です。
創建には諸説あり、一説には康平6年(1063)に前九年合戦の折、源頼義が戦勝祈願の為、石清水八幡宮(旧男山八幡宮:京都府八幡市)を勧請した事が始まりとされ、もう一説には文治2年(1186)に源頼朝の命により石清水八幡宮の分霊を勧請し赤目崎物見岡(現在の平城跡地)に社殿を造営し好嶋荘の総社としたとも云われています。
又、好嶋荘の記録的初見が元久元年(1204)に八幡宮領好嶋荘田地目録注進状写で「八幡宮御領好嶋御庄」とあり、少なくともこれ以前から祀られていた事が窺えます。
建永元年(1247)には鎌倉幕府執権の北條時頼の命により伊賀光宗を好嶋荘の領主兼神主としてこの地に派遣し、その後裔は地名から飯野氏と改姓しながらも代々神主職を歴任しています。
伊賀光宗は鎌倉幕府の有力御家人で政所執事などの要職を歴任し、姉妹(伊賀の方)が2代執権北条義時の後室になるなど幕府中枢にも近い存在でした。
元仁元年(1224)に義時が死去すると次期(第4代)征夷大将軍と目された藤原頼経と後継人の北条泰時を廃して、一条実雅と北条政村を擁立しようと画策、所謂「伊賀氏の変」を起こしましたが、発覚し光宗は信濃国、実雅は越前国に流罪となっています。
光宗は嘉禄元年(1225)に北条政子が死去すると復権、寛元2年(1244)には評定衆に就任し、「吾妻鏡」には乱に伊賀氏が関わったと記していない事から北条政子がでっち上げとの説もあります。
伊賀光宗の最盛期には甲斐国岩間牧、常陸国塩籠荘、陸奥好島荘、若狭国日向浦、但馬国広谷荘、備前国則安名などを所領し後裔は岩城国好島荘西方預所職に就任している事から、飯野八幡宮の由緒に合致します。
伊賀氏の後裔である飯野氏は室町時代に飯野郷の地頭として一定の勢力を保持していましたが、次第に飯野八幡宮の神官に落ち着いたようです。
鎌倉時代は飯野氏が中心となり社殿の造営や鳥居の建立などを行いましたが、南北朝時代に飯野氏は没落し、その兵火により八幡宮の社殿も焼失し衰微します。
建武2年(1335)に足利尊氏の許可を得て社殿が修復され再興し、周辺を支配した岩城氏の崇敬社となり、社領や社殿の造営など多く奉納物が寄進され、菊田・磐崎・磐城・楢葉・標葉の岩城五郡の総鎮守としても多くの民衆から信仰の対象となりました。
【 江戸時代以降の飯野八幡宮 】-慶長5年(1600)、関が原の合戦時岩城氏は親戚筋である佐竹氏と行動を共に東西中立だった為、一時改易となり後に亀田藩(秋田県由利本荘市岩城亀田)2万石の大名に復権して国替えとなります。
岩城氏が当地から去ると慶長7年(1602)に鳥居忠政が入封し磐城平藩を立藩(岩城氏縁の岩城が気に入らなかった為に地名を磐城に改称)、本城として磐城平城を築城する際に、飯野八幡宮の境内と城域が被った為、現在地に遷宮します。
鳥居氏の崇敬は篤く、慶長19年(1614)の火災で焼失後の元和2年(1616)には社殿を再建しています。
飯野八幡宮は江戸時代に入ると、幕府から社領を400石、藩主から50石の寄進を受け、当時は神仏混合だった為、16の寺院を遵える壮大な境内だったそうです。
明治初頭に発令された神仏分離令により、寺院や阿弥陀堂、釈迦堂などの仏教の要素が強いものが除かれ現在に近い形態となり社名も飯野八幡神社に改称(昭和36年:1961年に飯野八幡宮に改称)し明治6年(1873)に県社に列しています。
祭神:品陀別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、比売神(仲姫命)。
飯野八幡宮随身門(神社山門)は江戸時代初期の万治元年(1658)に建てられたもので、入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、木部朱塗り(彫刻部:極彩色)、上層部には高欄が廻り、下層部両側には随神が安置、江戸時代初期の楼門建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
飯野八幡宮には古建築物が多く、随神門以外に本殿と唐門、神楽殿、若宮八幡神社、仮殿、宝蔵が国指定重要文化財、拝殿と幣殿がいわき市指定有形文化財に指定されています。
夏詣での時期で茅の輪くぐりをしてきました。
八幡さまなのでご由緒は類に漏れず源氏、源頼義が戦勝祈願のために勧請されたのがはじまりとのこと。
比較的街中の高台に佇む平素な神社。
社務所の方も丁寧な対応をいただきました。
あと、表紙が木製の御朱印帳のデザインが凄かったです。
節分の豆まきの時期に訪問です。
こちらは11時から豆まきだったので終っていました。
立派な豆まきの舞台がありました。
入り口の太鼓橋や楼門も立派です。
源頼朝が文治2年(1186年)に好島荘の総社として建立したといわれています。
毎年9月14・15日には貞和2年(1346年)以来連綿と続けられている流鏑馬がおこなわれます。
立派な佇まいで目を引きました。
此処の八幡様は、神功皇后【じんぐうこうごう】(息長帯姫命【おきながたらしひめのみこと】)・応神天皇【おうじんてんのう】(品陀別命【ほむだわけのみこと】)・仲姫【なかつひめ】(比賣神【ひめかみ】)若宮社に、仁徳天皇【にんとくてんのう】(大鷦鷯命【おほさざきのみこと】)を祀っておられ、八幡宮の中でも格式の高い宮と存じます。
時代の流れを変えた方々又、色々なことを秘めたことでしょう。
此の地に行った事も何かのご縁、ありがたいことです。
色鮮やかな楼門が出迎えてくれる八幡宮です。
境内や社殿も雰囲気はいいです。
門の右側に駐車場があるが、ちょうど混んでる時期に行ってしまい、狭い駐車場に停めるのに苦労しました。
御朱印はありますが、神社名がスタンプなのは悲しいかな。
名前 |
飯野八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0246-21-2444 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
初詣、家族の祝い事、厄払いなど、ここで参拝、御祈祷していただいています。
初詣のときは駐車場がなくなるので、我が家は松ヶ岡公園の駐車場に停めて、八幡宮まで歩いて行っています。