よく通る道沿いにある碑。
(2022/09) 天保飢饉の際に人民救済のため幕府の禁を犯した罪で青ヶ島に遠島 ( 1836 ) にあった佐々木卯之助 ( 1795-1876 )の記念碑。
卯之助は明治になって赦免されたが、そのまま島に残った。
墓は次郎太夫墓の対面にある。
この他、出身地の茅ヶ崎に供養碑、追悼記念碑がある。
江戸時代、禁止区域での農民の耕作を黙認していた罪で長男と共に青ヶ島へ流罪に。
当時は天保の大飢饉で食料が非常に不足していための黙認でしたが、農民には感謝されていたようです。
天保の大飢饉の際、茅ヶ崎の農民が、立入禁止である幕府の相州炮術調練場で勝手に耕作を始めます。
調練場の責任者である、幕府大筒役の佐々木卯之助は、これを黙認し農民から感謝されていましたが、後に検地の際に発覚し、青ヶ島遠島の判決を受けます。
隠居の身の父と息子も連座します。
父、居伝左衛門65歳、佐々木卯之助42歳、息子の栄之助19歳のときのことです・・・卯之助は明治維新の際に赦免されますが、明治9年に没するまで島に住み続けます。
佐々木卯之助ゆかりの茅ヶ崎の小学生が見学に訪れた際に、佐々木卯之助の墓所が小さい事に対して手紙で苦言を呈したという逸話が伝わっています。
昭和四十三年、子孫の佐々木登氏が建立。
天保の大飢饉の際、茅ヶ崎の農民が、立入禁止である幕府の相州炮術調練場で勝手に耕作を始めます。
調練場の責任者である、幕府大筒役の佐々木卯之助は、これを黙認し農民から感謝されていましたが、後に検地の際に発覚し、青ヶ島遠島の判決を受けます。
隠居の身の父と息子も連座します。
父、居伝左衛門65歳、佐々木卯之助42歳、息子の栄之助19歳のときのことです・・・卯之助は明治維新の際に赦免されますが、明治9年に没するまで島に住み続けます。
佐々木卯之助ゆかりの茅ヶ崎の小学生が見学に訪れた際に、佐々木卯之助の墓所が小さい事に対して手紙で苦言を呈したという逸話が伝わっています。
昭和四十三年、子孫の佐々木登氏が建立。
名前 |
佐々木卯之助翁之碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.2 |
よく通る道沿いにある碑。