北上川は古来、南部藩と伊達藩の領域を南北に通ずる交通の大動脈として利用されてきた。
河口の石巻から盛岡までわずか100mという高低差で、船の航行が容易であったからである。
特に、石巻から黒沢尻の間は、概して水深もあり比較的大きな船も航行できた。
ひらた船は普通四艘一組で船団を組んで出航した。
水位が高い時は、350俵をそのまま積めるが、水位が低い時は一部の俵を艀下(小繰舟を代用)に積み分けて途中まで随伴した。
黒沢尻から石巻までは、順調にいけば下り三日、上り十日位とされていた。
しかし、水位の状態や風雨、川の凍結など、気候の変化によってしばしば難儀を強いられた。
特に黒沢尻から一関の間に浅瀬・暗礁が多く、また、狐禅寺峡谷部は川幅が狭く、流量が豊富なので渦巻きが多く、暗礁も多い。
その下流から石巻までは、上流から流された土砂の堆積で河道の変化が著しく、冬の西風が船頭達を悩ませるところであった。
一方、ひらた船が川をさかのぼる時は、風があれば帆を用いるが風がない時は棹で漕いで上った。
流れが急で棹が使えなくなると、水主(水夫)が岸に上がって岸から綱で引いた。
川岸には細い舟引き道がつくられていた。
引き綱を帆柱の上に結びつけ、この綱にひこ綱をつなぎ肩にかけて引くのである。
船には船頭一人だけ残り、棹で船が岸に寄りすぎないようにした。
水主だけでは船が動かない時は、付近の野良で働いている百姓たちを雇って、船を引いたという。
名前 |
黒沢尻河港跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
河川で運送が盛んな頃はこの周辺は造船や酒場で賑わっていたそうな、ほうほう。