急な階段を登る個所があります。
[延喜式内社]陸奥國 膽澤郡 和我叡登挙神社【岩手県神道青年会HPより】 当社は、嘉祥3年(850)和我叡登挙神社(延喜式内社、山頂奇石)の地に、慈覚大師によって月読命を祀る月山権現社が勧請され、大師自作の阿弥陀如来像も安置されたのが始まりとされている。
長治2年(1105)藤原清衡が堀河、鳥羽両帝の勅を奉じて再興し、中尊寺奥院として大いに栄え、その後、文明17年(1485)には田野勘四郎によって社殿が改築されたという。
元和3年(1617)火災に遭い社殿、宝庫が焼失し、それまでの古文書は悉く灰燼に帰した。
等々、各種の古記録に伝えられている。
しかし、宝物として一、神鏡1面、一、仏像3体、一、銅盤円形掛物(掛仏)13面の17点が近世まで当社にあったと記されているが、残念ながら現時点では確認されていない。
唯一の紀年銘資料としては万冶3年(1660)の鋳銅鰐口(市指定有形文化財・工芸品)がある。
また当社が中尊寺の奥院として同寺所属の上西谷坊が長く当地に居住して別当職を勤めていたことに関連する文化11年(1814)の文書を市史第4巻の604貢に収戴してある。
また、当社は明治4年、上衣川の磐神社と共に、下衣川の村社となり広く崇敬され、例祭日に行われる初宮参り(七ツ子参り)という古来からの習慣は、現在なお守られている。
なお、当社のある月山は女人禁制とされ、麓の荒沢神社の参詣までは許されたが、それより奥へ登ることはできなかったという。
和我叡登挙(わかえとの)神社は、社殿を持たず月山(現・三峯山)山頂の奇石を御神体としていた式内社。
安倍氏の崇拝したという荒覇吐(あらはばき)または荒吐(あらばき)の神を祀る。
安倍頼時の時代には当社を守護神として当山の北麓一帯に本拠を構えたとされる。
古来、社殿を設けない習慣であったため、式内社でありながら次第に忘れられ、明治期には和我叡登挙の読みも判然としなくなっていたという。
名前 |
和我叡登挙神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
5.0 |
整備はされていますが、一ノ鳥居から先は所々登山道に近い山道、急な階段を登る個所があります。
スニーカーやトレッキングシューズをおすすめします。
境内には謎多き神【アラハバキ】様、かもしれない苔生した巨石がご鎮座されています。