近年建てられた御堂のようです。
二階堂家は鎌倉幕府で政所執事を勤め、以後も鎌倉にいて須賀川城を初め全国各地に所領を持っていた。
室町時代中期の文安元年(1444)二階堂為氏は須賀川に下向し、和田の大仏脇の岩間の館に滞在した。
しかし、須賀川代官の二階堂治部大輔は為氏に従わなかった。
両家和合のため治部の娘三千代姫は為氏に嫁いだが、須賀川城をめぐる夫と父方の争いに進退きわまり、「 人問わば岩間の下の涙橋 流さでいとま暮谷沢とは」の辞世の歌を詠み僅か15歳で自刃した。
三千代姫の霊を弔うために、昭和30年になって地元有志により「暮谷澤乃碑」が建立され これに感動した彫刻家佐藤国義氏が姫像を須賀川市に寄贈され、昭和63年に善意の人々の協賛により五老山に穏堂を建立し姫像を安置した。
名前 |
三千代姫堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
藤葉栄衰記に記される三千代姫を偲び、近年建てられた御堂のようです。
二階堂氏ゆかりの日本三大火祭り、須賀川の松明あかし会場の五老山を見守る場所に建てられています。
こうした地元の歴史を敬う須賀川市の姿勢は素晴らしいと思います。