反対側に建っている。
奥州道中(国道294号)の境の明神、福島県側の関明神の道路を挟んで反対側に建っている。
碑文は境の明神を二所の関としたもので、理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三氏の撰文による。
昭和57年5月の建立である。
白河二所ノ関址 白河の関は古くから二所ノ関と呼ばれ、八溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾通りにも選べるのである。
白河楽翁公により指定された今の旗宿道は其の一本である。
然しこれより西側三キロの所を通っている白坂道は昔からよく利用され、古の関蹟にみられる関の男女の明神址があり、古関の体裁をもっともよく保ちながら、白坂の関址は全く無視されて来た。
余、多年関境の研究に没頭し、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。
茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に祈念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものである。
昭和五十七年五月建立 理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三 白河関守 石井浩然 この白河二所ノ関址碑の意味するところは、東山道の道筋に当たる旗宿筋(仮にこう呼ぶことにする)と奥州道中の白坂筋(前述のとおり仮に呼ぶこととする)の二道が古来より存在し、官道が東山道から関街道と呼び名を変え、奥州道中へ変遷したのではなく、古代には白坂筋(東山道)が存在し、その後鎌倉街道(関街道)として旗宿筋へ移行し、更に奥州道中で白坂筋へ戻ったというのである。
当然、関も白坂筋に古関と関屋の本体が存在し、旗宿筋にも同じ様な関屋が置かれ、ここから白河二所ノ関という名称が生れたという。
以上が岩田先生の二所ノ関説である。
先生の著作「関址と藩界」には、白坂筋は承和10年(843)には存在したというが、何を根拠にしているのか示されていない。
(五畿七道は大宝律令によって定められたというが、それ以前から存在したものと考えられる)また、白坂筋を古代とし、中世を旗宿筋と定めたことも不明である。
巻頭で執筆の思いを述べられている内容からすると、遅くとも昭和30年代には、この説が活字となって表れていたことになり、昭和50年代に書かれた書物への影響は少なくない。
境の明神の向いに建ち、足元にはひっそりとユキノシタが咲く。
栃木県と福島県の県境に〔白河二所之関址碑〕が建っている。
元禄2年(1689)4月、芭蕉と曽良も〔奥の細道〕の旅で、この辺りを歩いたのではないかと想像する。
〔奥の細道〕本文では触れていないが、〔曽良随行日記〕には、「・・住吉・玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。
古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由」と記されている。
奥の細道 第11の段 「白河の関」 芭蕉も歩いた旧奥羽街道の国境。
二つの明神に狭間にあり、静けさの中に歴史の趣を感じる峠である。
ここを白河の関とする説も有力である。
奥羽街道が移ってからは「活気」が「風情」に変わり静寂とともに時間が流れている。
「木でも、石でも、こういう柱だの壁だの、屋根の鬼瓦だの、みんな古くなるとものを云う」と聞くが、訪れた夏、静かな、しんとした、それぞれがなにも云わない場所であった。
奥の細道の旅では(曾良旅日記によると)那須湯本から遊行柳を経て、この国境を越え、後の世 寛政12年(西暦1800年)に領主松平定信が碑を建てた(現在最も有名な白河の関跡<芭蕉の功績を讃えてここにしたようである>)旗宿まで1日で約50kmを歩いたことになる。
賢明な読者ならばお気づきかと思うが、曾良旅日記の通りであると「遊行柳」で詠んだ「田一枚 植ゑて立去る 柳かな」が台無しになってしまう。
正当な解釈は次の「追分」に譲るとしてここでは、些か特異な解釈をすると、芭蕉は那須湯本温泉宿和泉屋に2泊したとあるが、実は1泊で、もう1泊は郡守(1万石未満は大名といわないので、芭蕉固有の表現のようである。
一般には<領主>)芦野民部資俊”本文では、<戸部某>”宅に泊まったものと思う。
さらに、前段(第10の段)の「遊行柳」は芦野民部資俊が案内したものと考える。
これは、羽黒藩の館代、芦野郡守と権力者と親しいことを伏せたかったのが意図かも知れない。
さらに踏み込めばこの旅には別の目的(吉次の墓で書いたが)もあって、このような昵懇さを伺わせる記述を避けたとも考えてしまう。
(句の趣を壊してまでも隠すものは何だろう・・・。
関ヶ原の前哨戦、上杉討伐では、黒羽、大田原は徳川軍の最前線であり、最重要拠点であった。
)いま思い返せば、この旅では謀略説が有力な吊り天井事件の舞台である(通れば何かを書かねばならぬ)宇都宮を避け、日光から、塩谷を経て矢板に抜ける行程を取っている(第7の段「那須野」)。
その日は曾良旅日記によると、雨の中、半日で30kmも歩いている。
曾良旅日記の記録改ざんの匂いを感じるのはそれ(日光ー玉生の行程)と、ここで2回目である。
ここまで読み返して、埋蔵金伝説のある日光で実は、”裏見の滝”を訪れた後、要人との密会があり、要人宅に宿泊したのでは・・・?(黒羽で日程相殺は可能)などと、想像は膨らむところである。
こういう謎の解明は、私立探偵の工藤俊作に頼まないと答えが出ないのかもしれない。
なお、口コミは理論的根拠(エビデンス)が不要なので、所見を真に受けないで頂きたい。
奥の細道のこの段「白河(白川)の関」も特異である。
芭蕉は句を詠まずに、4人の「風騒の人」の和歌を示唆する言葉が盛り込まれている。
今ならば有力な解説書があるので、誰が詠んだものか分かるが、かなり和歌に精通していなければ本文だけではだれの歌か分からないのである。
(解説は次の「追分」にて)そのうちの本文にある「紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶(なお)あわれ也」が指す和歌は”都には まだ青葉にて 見しかども 紅葉散りしく 白河の関”であり、 詠んだのは源頼政である。
源頼政は 源義家の子孫でなく、(足柄山の金太郎の上司で酒呑童子退治などの伝説の多い)源頼光の子孫である。
余談であるが手前が源平争乱の武将を1名挙げよと言われれば迷いなく「源頼政」を挙げる 稀代の傑物である。
頼政は「平治の乱」の折、主たる源氏武将と袂を分けて藤原信西軍につく。
この乱により源氏は衰退し、平家が栄華を極めることになるが、平家の世に要所に残った唯一の源氏一族が頼政だった。
この頼政は後に以仁王を担いで平家に老牙をむく。
頼政は敗死するが、この決起が、木曽義仲、源頼朝の挙兵に繋がり、平家を滅ぼすこととなる。
頼政の世辞の句は「埋木の 花さく事も なかりしに 身のなるはてぞ かなしかりける」である。
本文で「あわれ也」と書いてあるところが意味深長である。
曾良の句の「卯の花を かざしに関の 晴着かな」(というより、”卯の花の白妙に、茨の花の咲きそいて”の方が妥当かもしれないが)の「卯の花」(および「茨の花」)の白色は 頼政の詠んだ ”白”河に夏の青葉がやがて紅葉を敷かれた秋の風景を想い 雪の白さを象徴させる白い花が彩る景色(春は遅れたが”霞”である。
紅葉の紅は何を示唆?そういえば、先段書いた浪人時代の恩師は色彩にまつわるお名前でした。
先生、ご覧頂けますか、出来の悪い教え子は文学の趣を些か感じられるようになりました。
)は時の移ろいが映え、奥ゆかしい。
頼政が”裏切り”の暗示でなければ・・・
普通に言われる白河の関ではありませんが、国境です。
境の明神の向かいにあります。
手書きの個性あふれる看板横の階段を上ると民家が見え、他人様の敷地に入ってしまったような感覚でした。
石碑だけがあります。
名前 |
白河二所関址碑 |
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ジャンル |
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住所 |
福島県白河市白坂明神 37°04'08.1"N 140°11'09.4"E |
評価 |
3.4 |
下野の境の明神、陸奥の境の明神の奥州道中(国道294号線)を挟んで、反対側に建っている。
石井七兵衛は、南部藩の家老だったが、陸奥国で産出した金を幕府ヘ供出する際に、産出量をごまかしていたことが発覚し、七兵衛が一人で責任を受けて浪人になった。
藩主が石井家の離散消滅を不憫に思い、白坂明神前の土地を与えて、ここで茶屋を開け、と計らったのが、茶屋「南部屋」の始まりで、元和三年(1617)のことだという。
寛文四年(1664)、徳川幕府の命令で、八戸藩を創設することになった南部直房と、本家盛岡藩主南部重信とが、両家相続のことで、はじめて、幕府に呼ばれて、江戸に上る途中、二所の境の明神に詣り、社前にあった、石井七兵衛の家で休憩した。
その時、七兵衛の老妻が作って出したあべかわ餅が、大いに気に入って、盛岡・八戸両藩主は、江戸参勤の折には、必ず、石井七兵衛宅に休憩し、あべかわ餅を賞味することを恒例とした。
時代が移り、老婆がいなくとも、若い娘が、老婆のよそおいをして、餅を献ずるというしきたりを続けたので、これを、白河の「南部おばば」とまで呼ばれるようになった(八戸藩史稿)。
仙台侯は、南部屋を休み処として、参勤交代の度に、五石という大量の千代餅を撒き、それ欲しさ、見たさに、三千人を超す人々が参集した(「ようこそまほろばみちのく 白河二所の関」かなやまじゅん著)。
盛岡南部藩おかかえの関取、南部二所之関軍之丞が、二所之関部屋の創始者である。
二所之関部屋名は、この白河二所之関明神と大いに関係があった。