金売り吉次は奥州安達郡or松川が出生地。
松の古木が目印でした。
田んぼのなかに半島状に突き出てあるので、入って良いのかわからない。
奥の細道の旅で、曾良旅日記に記載のある塚。
当時は畠の中、今は水田の中。
奥の細道での記載はない。
金売吉次は屋号かもしれない。
源義経を藤原秀衡のもとに手引きしたのも吉次である。
(手前は坂東武士の血筋なので、卑怯な義経を潜在的に敬遠してしまうため、詳しくない。
)墓は他にもあり、義経を導いた吉次の墓の可能性は低い。
吉次はそもそも奥羽の金山を支配しており、義経の時代の100年前から名前が登場している。
源頼義、義家にも関わりがある。
ここからは歴史好きの妄想である。
昔、登山をする友人から聞いた話だが、奥の細道の経路は相当な健脚でないと不可能であると言っていた。
芭蕉には忍者説もあり、旅にかこつけ諸国の謀反の諜報活動が本務であったとか?奥の細道の6段「日光山」では、平和の世を記した後、急に筆を止め、「あらたうと 青葉若葉の 日の光」と詠んである。
日光東照宮は家康が祀られていて、「青葉」が「青葉城」を暗示しているのであれば、平泉の句「兵どもが夢の跡」は藤原4代や義経を指しているのではなく、「伊達家は既に謀反の意はない」という意味であったり、小松の句「兜の下のきりぎりす」は斎藤実盛を指しているのでなく、「前田家には謀反の意はない」という意味の隠語ではないか・・・(どちらも、名前「泰衡」「実盛」を誤記している、また、日光山の開基は、空海大師でなく、勝道上人。
人の誤記は諜報活動を示す枕詞?だから、室の八島であえて煙に対する句を載せなかったのでは・・・。
)そんな理由で「裏」を臭わせる吉次を「奥の細道」には意図的に登場させなかったのではないかと・・・根拠のない妄想です。
そもそも、諜報活動記録を紀行小説にかこつけて世の中に公表する必要性は説明することはできない。
コンビニの駐輪場から見えて、すぐ場所がわかりました。
田んぼの真ん中に、ポツリとあるので、わかりやすいですが、知らない人、興味のない人に感心を持ってもらいたいので、少し大きめな表示でもあれば良いと思いました。
マイナーと言っては悪いんですが、こういう史跡は、どこも管理スパンが長くなってしまうのか、ここの案内板も表示が色褪せて読みにくくなっていました。
田んぼの持ち主さんの好意で、この場所が残されてるのを感じるので、せっかくですから、なるべく良い環境で見てもらえるようになって欲しいです🎵
県内に3箇所ある「金売り吉次の墓」のひとつ。
源義経が頼朝に追われて奥州に逃げる際、同行した金売り吉次がここで病没したと伝えられ、周辺の街道沿いには吉次や義経にまつわる伝説の地が散在しています。
田んぼの中に五輪塔(の残欠)がぽつんとあるだけなのですが、実は古くから知られた観光名所で、芭蕉の弟子、曾良も「吉次が塚」として奥の細道の旅日記に書き残しています。
わりと近い鹿沼市楡木にも「金売り吉次の墓」があるためか、文献によっては「吉住吉次の塚」と呼ばれることも。
昔は「雨の夜に人を送る」「柵で囲っておかないと転げ回る」という怪談があったそうです。
義経が頼朝と不仲になり奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる。
福島県白河市白坂皮籠の八幡神社付近にも金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。
名前 |
金売り吉次の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.4 |
金売り吉次は奥州安達郡or松川が出生地。
他にもいくつかの墓があります。
この墓は、昔は線路から東の薮中に埋もれてたのを整備したそう。