上杉景勝は家康から上洛して領内諸城改修の申し開きを...
徳川家康公小山評定之碑 / / .
赤ちゃんが何組か、いました。
お宮まいりかな?街の中にポツンとある感じです。
古き良きものです。
小山評定の碑は、素っ気ない感じです。
慶長5年(1600年)4月、上杉景勝は家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。
この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。
この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。
入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。
同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。
ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
「小山評定」とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。
その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。
これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない。
須賀神社は国道4号線に面しており、そこに小山評定開催の碑が建っている。
上杉討伐に向かっていた家康軍に上方で三成が挙兵した報が入り、緒将を集め、このまま進軍するか、上方に返して三成と戦うかを質した。
結果、三成と戦うことに決し、家康軍は関ヶ原に向かった。
歴史の大転換の場所だし、その場所を見たかった。
須賀神社の入口に有るので場所はすぐにわかると思います。
歴史好きには垂涎の場所です。
家康の時代を想起させてくれる場所です。
以前こちらで地鎮祭をお願いしました。
神主さんユーモアがある方でした。
神社自体は風格があり、素晴らしい神社だと思います。
4号線沿いに碑があります。
その他境内には、本殿、拝殿、神門、神楽殿、神輿庫、藤原秀郷公顕彰碑、昌木(沼部)晴雄翁の碑、南門の外に七つ石(夜泣き石)、小山朝政之碑、小山義政之碑があります。
市役所とここの二ヶ所あるというのは如何なものか?正確な場所を示す資料がなかったら、どっちか一つにしておいても問題なかっただろうになぁ。
天下分け目の関ヶ原なんて言葉があるけど、徳川家康にしたらここでの評定こそが天下分け目だったのかもしれませんね。
家康に従って着いてきた武将達は、そのほとんどが豊臣恩顧の武将達だったわけですからね。
その武将達の妻子が人質になったことを正直に伝えたばかりか、「三成に味方しても恨みに思わず」とも言ってるんですからね。
その時に一番の豊臣恩顧の武将だと目されていた福島正則が「何をおっしゃる、私は家康殿に味方します」と言わなかったらどうなっていたんでしょう?そう考えると、関ヶ原の勝利はここで決まったようなものかもしれませんね。
徳川家康はこのあたりで石田三成ら西軍の挙兵を知り、評定を開き(小山評定)、西進を決意。
こちらの神社(旧名は祇園社)で戦勝祈願し、関ヶ原合戦勝利後は寄進をしている、徳川家にとって縁起の良い神社です。
「開運のまち小山」の中枢と言えるでしょう。
石碑自体は国道4号(日光街道)沿いにポツンとあるだけですが、神社は広大で、家康の寄進状や朱神輿などが現存していることが記されています。
なお、至近にある小山市役所敷地内にも小山評定跡碑があります。
どちらが正しいかは不明です。
名前 |
徳川家康公小山評定之碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0285-22-0450 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
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小山市でも格式高く由緒ある須賀神社の入り口付近にある小山評定の碑歴史好きの方ならご存知かと思いますが徳川家康公ゆかりの地であります。
小山市役所の方には小山評定跡があります。
あわせて巡るのがおススメです。