JR赤羽駅の西口の丘陵地に建つ。
城の存在が一目瞭然。
お寺じゃなくて、城跡の碑が立っているんだね❗
赤羽に住んでいるなら、peaceせずに日本文化の平和といくらかの情報を見つけるために足を運んでください。
それ以外の場合はスキップします(原文)If you are living in Akabane do not hesitate and go to visit to find peace and some dosage of information of Japanese culture. Otherwise just skip
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。
稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。
その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
碑以外に何かがあるともっと良い。
赤羽駅から歩いてすぐ。
年寄りには応える坂道です。
太田道灌が築城。
岩槻城と江戸城の経由地。
JR赤羽駅の西口の丘陵地に建つ。
戦国時代初期関東の名称・大田道灌の築城と伝えられる。
この地域は、北側に岩淵宿という北に向かう岩槻街道の現荒川にいどむ、要衝で関東平野と河川に向かう舌状の丘陵地の端に位置する。
現在、静勝寺の境内が城郭の中心だったのであろう。
目下の赤羽の風景と今昔を感じる。
月に1度の太田道灌とのご対面。
名前 |
稲付城跡碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/nishigaoka/inatsuke.html |
評価 |
3.8 |
連休なので、普段行けない地元を散策に来てみました。