もう一つはこちらの本所お蔵でした。
蔵前にも所謂お蔵がありましたが、もう一つはこちらの本所お蔵でした。
各地で収穫されたお米はお蔵で貯蔵されこちらから後家人や旗本に支給されました。
その大事なお蔵でした。
両国駅から横網公園にかけて江戸時代に本所御蔵という幕府の御米蔵がありました。
江戸東京博物館、両国中学校、国技館の一部も入るという広大な土地です。
享保19年1734年、4万4千坪に12棟88戸前の倉庫群が造られ、御米蔵として使われ始めました。
安政5年1858年までは37棟246戸前に増築されたそうです。
平成13年のビルの建築工事の際には御蔵の一部と見られる堀割や護岸の跡が見つかり、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土したという事です。
まさに江戸の台所だったのですね。
説明版しか残されてないものの、当時の賑わいが偲ばれて隅田川の役目が大変重要だったとわかります。
お米はおいしいですよ。
幕府の米蔵があった場所だそうです。
名前 |
本所御蔵跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
2.9 |
本所御蔵跡は浅草と本所の間の両国橋の大川を挟んで江戸の米の備蓄が為されて飢饉に備えたのです。
米蔵は横網町(長屋です)には無く掘割があって藤代町を中心に本所の七不思議が言われ、本所界隈では広小路は賑わいがあって、後に掘割が埋立てが成されて藤代町等々は行政変更で両国1丁目に合併されました。
8代吉宗公の功績です。
後に、本所奉行所や火消も創設されましたが、南町奉行所に統合され、博物館や藏前国技館から両国国技館の以前は沼地で原っぱです。
北斎通りの左側の両中は戦後に開校されたけれど江東橋1丁目に両国高校と後に両中が淺野蔵屋敷跡に開校されました。
墨東病院が三丁目ですが、元は本所病院です。
本所亀沢町7代目末孫。