想像するようなお寺は見られませんでした。
本で知りました、首切地蔵は大きいためにいくつかの部分に分けられ制作され、現地で組み立てられた。
以下引用ですが、「小塚原刑場史」の著者黄木土也氏は『石地蔵 ぬい上ケをした 小づか原』という川柳を紹介し、『ぬい上ケをした 』には別の意味が込められているとみると言っている。
それは、刑場で亡くなった死者の遺体を複数回試し切りに供するために非人にたちによって縫合された。
その縫合部をお地蔵様の接合部に見立て揶揄している・・とあった。
とにかくここに埋葬されたすべての方々の成仏をお祈りしました。
お彼岸だったのでお寺の人や檀家の人がいて普通のお寺のようだった。
ただ過去の歴史を知ってしまうと戦慄を感ぜずにはいられない。
このお地蔵様の独特の色合いと表情といったらなんだろう、世の儚さ人生の空虚さが伝わってくる。
小塚原刑場の跡です。
江戸時代に存在した大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と云われています。
明治初期には、人道上の問題より新政府によって廃止されました。
しかし、創設から廃止までの間、およそ20万人以上の罪人に対して、磔、斬罪、獄門等の刑が執行されたそうです。
死体は荼毘もされず、土を被せる程度のお粗末な扱い。
夏には辺りに死臭がたちこめ、野犬などの動物が死体を漁り、地獄の様な有様だったそうです。
この大きな「首切り地蔵」は高さ、およそ3m。
刑死者の冥福を祈るために、1741年(寛保元年)に建てられたと云われています。
ちなみに2011年の大地震の際、巷の噂では「首が落ちた」と聞いたのですが・・・それは「首切り地蔵」の名から来る先入観で流布したガセです。
実際は左腕の落下と胴体部が大きくズレたとの事。
当時修復に600万円ほどかかると言われ、私も気持ち寄付をいたしました。
直って良かったですね(笑)
お地蔵さんは石を組み合わせて出来ていますが、3・11東日本大震災のとき、倒壊は免れたものの、その石が大きくずれてしまいました。
浄土宗のお寺ですが、処刑された人たちを宗派を超えて供養するという精神で、他宗派のお経を記した石碑があります。
小塚原刑場(2)首切り地蔵尊、断首、火あぶり、磔など小塚原刑場の跡地には現在「小塚原回向院」と「延命寺」となっている。
常磐線、日比谷線の両線の間に分断された刑場跡地に「延命寺」がある。
延命寺は昭和57年11月20日、小塚原回向院から分院独立し開山しました。
名称は祀られている首切り地蔵(延命地蔵尊)からきているようだ。
道路拡張工事のために新しい塀に建て替えられたようだ。
(写真)刑場は間口100m、奥行50m以上あったそうだ。
この奥に刑場跡が見られるかも知れない。
首切り地蔵(延命地蔵尊)見えてきた。
(写真)あそこの一角は刑場の雰囲気が伝わってくる。
この地蔵菩薩は1741年に刑死者を弔ために建立されたが明治になって線路敷設工事のためにこの場所へ移設された。
確かこの場所は線路敷設の際に出た骨と土を積み上げてあったことろ。
(『日本行刑史(滝川政次郎)』掲載写真)江戸時代描かれた刑場。
(写真)左隅に首切り地蔵。
真ん中の獄門台には生首。
右にあるのは非人小屋か。
獄門台。
脇には罪状が書かれている。
三日ほど晒される。
刑場の前の通りは旧奥州街道で人の行き来が激しいので見せしめとして晒したものと思われる。
他の場所(牢屋)で首をはねてからこちらへ持ってきて獄門台に晒すこともあったようだ。
イスラム國の処刑を思い出す。
歴史的背景や場所の意味合いは事前に理解しておいたほうがいいと思います。
かつての処刑場を供養としてお地蔵様を建てた場所になりますお寺の名前がありますが、社務所のようになっていて、想像するようなお寺は見られませんでした。
南千住駅には何度も来ているのですが、ここのクチコミで教えてもらわなければこの場所に来ることはなかったでしょう。
立派な大仏様のようなお地蔵さんがいらっしゃることを知りませんでした。
首を落とされる前に見る優しい顔のお地蔵さん。
科人達はどんな気持ちで拝んだのでしょうか。
今日が天気の良い日でよかったです。
試し斬りで有名な山田朝右衛門が、刀の切れ味の確認のため罪人の死体で試し斬りを行った所です。
東日本大震災では被災したが復旧なる。
電車から見えるのでちょっと寄ってみました。
小塚っ原の刑場を偲ぶ、という雰囲気はあまりありません。
江戸時代から明治初期までの罪人の処刑場であり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ刑場でした。
延命寺にある小塚原の首切り地蔵は荒川区指定有形文化財であり、刑死者や、無縁者の霊を見守る巨大なお地蔵樣です。
巨大な文化財の首切り地蔵は迫力があり良い✨✨✨
名前 |
延命寺の首切り地蔵 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
毎月24日はお地蔵さんの縁日だ。
頃やあたかも日曜日。
どこかお地蔵さんに行こうかな。
パッと思いつくのは巣鴨(さすが、刷り込みが行き届いてる)。
でも混んでるだろうな、パス。
六地蔵という手もあるな。
品川、新宿、とね。
でもどちらも行ったことあるしな。
おぉ、首切り地藏があるではないか、小塚原のが。
そうだ、それがいいや。
という次第でGo!三ノ輪を起点にアラーキー生家跡から浄閑寺、線路沿いに歩いてゆくと何やらいい匂いが...おぉここは鰻の名店、尾花ではないか! 確かここは澁澤龍彦さんも(ですら、かな)訪れたのだったかな。
確か「ブリキの太鼓」だったかを観た後、わざわざ繰り出していったのではなかったかな。
何でブリキの太鼓で鰻につながるんじゃい、ってのは龍彦さんのエッセイを読んで下さい(題を忘れて申し訳ないのですが)。
そんな尾花の軒先をかすめて六菖十菊の鰻香を味わいつつ、まずは回向院。
松陰の墓石が黒ずんでいるのは手向けの線香のゆえか、はたまた逆光ゆえの錯覚か。
オモテに刻まれた「松陰二十一回猛士」の字は本人の手跡だったかな。
いずれにせよさすがだな、長州。
彼の墳墓は結局若林に移されたのではなかったか。
郷土の先達の顕彰、その故地を聖地化と、まことに間然するところがない。
さて首切り地藏だが、回向院にはいない。
ここも刑場の敷地内だったかもしれないが、そこにはいない。
JRの線路を越えたちょいと先のこの寺に鎮坐している。
それも近代の鉄道敷設などで移動があったらしいが。
この巨大な石像を初めて見たのは、もう半世紀に近い昔。
草加に住む親戚を訪ねるため地下鉄に乗ると、三ノ輪を過ぎた辺りでやおら地上に出て視界が明るくなった途端にこの像が目に入るのだ。
幼心にはその巨大さが異様に感じ印象に残った。
父にそこがコヅカッパラの仕置場跡だと教わった。
コヅカッパラというリズミカルな地名が、これまた印象的であった。
だがそれ以降も、電車から眺めるばかりで、眼前に仰ぐ機会はなかった。
だがさまざまな本で、画像は見ていた。
高架線に挟まれた一角、巨大な石像がドンと据えられ、その手前にこれまた巨大な髭題目の碑が立っている。
髭題目の石碑は、京浜急行の、これまた車内から見える鈴ヶ森にもある。
元禄期だったかに、篤志家が各地の仕置場に建立したのだそうだ。
一体いくつ建てたのだろう。
相当なモノイリだったのには違いない。
そんな次第で題目碑があるから、ここは法華の寺だとばかり思っていたが、実際境内に入ってみてビックリ! 月影杏葉紋が... 実は念仏寺だった。
いやぁ行ってみないとわからないものですね。
そして好きですよ、こういう宗派混淆ぐあい。
さて首切り地蔵。
十分に巨大でしたね。
土台も人の丈ほどもあろうか。
もう仰ぎ見るほどだ。
今日は7月24日、こじつければ地蔵盆だ。
風も孟夏とも違う感じがする。
雲でさえ、だ。
あぁ季節も歳月も、流れてゆくのだなぁ。
お地蔵さん、命あらばまた会おうな。