山を眺めながら古人に思いを馳せるにはいい場所です。
井上井月は、1822(文政5)年に越後長岡藩で生まれ、1858(安政5)年忽然と伊那谷に姿を現して以来、同地で放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んだ俳人で、「柳の家井月」「北越漁人」などとも号した。
趣味人の男たちの中には師事する者もいたが、女や子どもたちはその風体から「乞食井月」と忌み嫌ったという。
戸籍法をうけ1884(明治17)年には美篶村(現在の伊那市)塩原折治(梅関)の厄介人として塩原家へ付籍して「塩原清助」を名乗ったが、1886(明治19)年12月に伊那村(現在の伊那市)の路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したと伝えられる。
句碑「落栗の座を定めるや窪溜り 柳の家井月」(おちぐりのざをさだめるやくぼたまり)は、「その風雅と遺徳を偲び」1987(昭和62)年5月「伊那市美篶末広太田窪」路傍に建立された。
その後の道路拡張によって2010(平成22)年12月に現在地に移設されたという。
塩原家への付籍とあわせて、漂白から伊那の地に骨を埋める覚悟をきめた心境がこの句にあると解されている。
また、1882(明治15)年山口県に生まれた種田山頭火は、「荻原井泉水」門下で、「尾崎放哉」とともに自由律俳句を代表する俳人だが、ともに酒癖で生活を持ち崩した二人でもあった。
山頭火は、晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。
その山頭火は「井上井月」に傾倒し、1939(昭和14)年5月3日に井月の墓参を目的に伊那を訪れた。
俳友「前田若水」の案内でその目的を果たしたというが、1940(昭和15)年10月11日、愛媛県松山市で脳溢血のため享年58で帰らぬ人となった。
酒と旅を愛した山頭火の句碑「お墓したしくお酒をそゝぐ お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね 供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝 井月の墓前にて 山頭火」は、墓前に捧げた句を山頭火自筆の「風来居日記」から「抄出して」1998(平成10)年5月に建立したという。
その後、井月の句碑と同じ経緯で移設され、ともに西方を望んで現在地に立っている。
名前 |
井上井月句碑(俳諧井月終焉の地)/ 種田山頭火句碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
山を眺めながら古人に思いを馳せるにはいい場所です。