延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建した。
住宅街にひっそり佇む小さい神社です😁本殿の横に社務所的な建物が有るのですが不在の場合は右下👉が宮司さん宅なので、そちらで御朱印が頂けます😀
小茂田北向神社(こもだきたむきじんじゃ)北向神社御祭神 須佐之男命 大己貴命 少彦名命惟神祖霊社御祭神 大国主命 須勢理昆賣命境内社 稲荷神社(字下児玉東伊那利神社を合祀) 天満天神社(字下児玉東伊那利神社末社菅原神社) 神明神社(字日之待西伊勢神社を移転) 八坂神社(字南口八雲神社を移転) 阿夫利神社(文久二年銘の石宮) 三島神社(宇三島南) 大国神社(字権現塚) 山之神社(字太子宮) 厳島神社(字阿郡志境)由緒美里町小茂田は、身馴川(小山川)と志戸川の間に位置し、奈良・平安時代の条里制(土地区画管理制度)の遺構があります。
神社の東側にある杜の池(小茂田池)は、条里制に伴って奈良・平安時代に掘られた池です。
武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安三年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したといいます。
文永十一年(1274)十一月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記され、真菰が繁茂している田を意味していたと考えられています。
小茂田北向神社は北向五社の一つで、身馴川の古い段丘状の微高地に位置しています。
社伝によると、桓武天皇の時代の延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れ、身馴川に棲みついて周辺の村々の田畑を荒らし廻って人々を苦しめていた大蛇を退治しようとした際に、上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと退治することができたといいます。
この事により坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に赤城大明神を勧請しました。
人々は、社殿が赤城山に向かって北向きに祀られたため、北向大明神・北向様と崇め、五社の北向神社を総称して「五社の明神」と称するようになったといいます。
江戸時代初期から幕末まで、領主酒井家の崇敬が篤く、領主酒井家の崇敬が篤く社殿改修を進めました。
元文四年(1739)十二月十七日に「池魚の災い(池魚に感謝しないための災い)」による大火に遭い、社殿・古文書ことごとく灰燼に帰しましたが、その後、酒井家や氏子の努力で再建されました。
天明年間(1781~1789)には、天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われましたが、神社に帰依することでその難から逃れようと願った氏子たちが、天明三年(1783)に石鳥居を建立したといわれています。
明治十二年(1879)に拝殿を再建しました。
昭和三十八年(1963)に石鳥居を再建しました。
昭和五十一年(1976)に外宇営繕、平成八年(1996)に社務所再建を実施しています。
(「境内案内板」及び「埼玉の神社」参照)三本の欅北向神社の境内には、護り神の「三本の欅」があります。
昭和十九年(1944)太平洋戦争が激しくなった時代に、戦争に出兵することが決まった三人の青年が願いを込めて植えた欅です。
青年たちは戦争が終わって無事に故郷に帰還できることを祈って植えました。
昭和二十年(1945)終戦後、三人の青年たちは戦火を潜りながらも、無事に故郷に帰ることができました。
(境内案内板より)
小茂田北向神社。
埼玉県児玉郡美里町に鎮座する。
祭神は大己貴命・須佐之男命・少彦名命。
社格は旧村社。
坂上田村麻呂が赤城大明神の神霊を戴き、大蛇を退治した伝説がある。
御朱印あり。
美里町小茂田の鎮守様のようです。
心が落ち着く歴史有る神社です👍️
とても歴史のある神社の様です。
心が落ち着く不思議な感じがしました!
きたむきじんじゃ。
初めて参拝しました。
境内に宮司宅があり、御朱印を直書きで頂きました。
¥300
坂上田村麻呂が、赤城大明神の霊威を借りてこの地方に棲む大蛇(ヤマタノオロチ伝説同様に服従しない豪族でしょうけど)を退治したので赤城山に向かって建てられ。
東にある池は奈良平安時代の条里制によって掘られたとか。
なかなか由緒ある神社です。
旧村社。
御祭神:須佐之男命、大己貴命、少彦名命。
創建:平安時代以前相当。
資料によると、武蔵武士児玉党薦田氏(こもだ)の本質地と伝えられ、仁安3年(1168年)には児玉党の庄太郎家長(本宗家5代目)が社殿を再興し深く崇敬したという。
元和3年(1617年)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。
以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。
社伝によると、桓武天皇延暦20年(801年)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。
よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。
なお、神社の東側にある杜の池(小茂田池)は、条里制に伴って奈良・平安時代に掘られた池である。
とあります。
安政5年(1858年)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬(岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
とあり、現在も神職が常駐の神社です。
美里町域内・北向神社の総社に該当します。
村社北向神社の社号標は、境内の鳥居から200m位北方の通り(かつての幹線)に面したところにあります。
これも参道ですから、北に長い参道です。
そして、鳥居の前の神明堀とある用水路に架かる橋は、参道の途中の神橋と言うことになります。
境内、案内表示も行き届いていて、奇麗で現代的な神社で、まずは手水舎で清らかな神水がお迎えしてくれる神社でした。
気持ちリフレッシュ守って頂いているような雰囲気です。
北向神社の創建年代不詳、延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建した?北向に浅間山に向かっている。
北向五社の一つ。
坂上田村麻呂創建か。
北北東の墓地には慶應二年の武州一揆に関する石碑あり。
名前 |
北向神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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とても綺麗素敵な神社です。
皆さまも、神社に来てくださいね~。