平穏な日行きました掃除がゆきとどいておりきれいな空...
こぢんまりとした可愛らしい神社です。
この前タヌキがいました。
御祭神 宇迦之御魂命御縁起(歴史)当地は塚(古墳)が多く、「風土記稿」長沖村の項に、地内の恵日寺の境内から「鼻目そなはり人の形をなし」た人物埴輪の出土が記されています。
また、当社付近からは、二階造家型埴輪が出土しています。
飯玉は、飯が稲であり玉が魂の意ですので、一般には稲霊と解釈されるほか、飯には斎火の意もあり、斎火の飯の神、つまり御饌の神を祀ったものとも考えられます。
飯玉神社が鎮座する地内からは古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器に因むとされています。
吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にあります。
群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遺物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土しました。
群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられます。
当社は、「風土記稿」に「飯玉明神社 村の鎮守にて、神主を山中能登と云」とあります。
「児玉郡誌」には、享保年中(1716~1736)に山中兵庫が京都の吉田家の配下となり、同家が明治維新まで数代にわたり奉祀したことや、社殿は享保年間に再興されたことなどが記されています。
(境内案内板より)一の鳥居を潜り、石垣の上の境内地に入ると左右に両部鳥居があります。
二つの両部鳥居の先、中央辺りに大きな欅が聳えています。
左側の鳥居の先が飯玉神社社殿で、社殿の右手にある「遥拝所」と書かれた石柱辺りが、直径約10mの円墳「長沖44号墳」です。
ここからは埴輪が出土しています。
右側の鳥居の先、神社境内の一番右後方にある、境内社の覆屋の様な建物の辺りが直径5~6mの円墳「長沖45号墳」です。
飯玉神社社殿左後方にも、社殿建造によって削られていて僅かな墳丘しか見られませんが、直径12m以上あった円墳「長沖46号墳」があります。
このことから、少なくとも七世紀頃の古墳時代終末期には、この地に有力豪族が存在したと考えることができます。
(古墳調査の内容は見ていませんので、あくまで個人的解釈です)
千本桜の川から近い場所にある神社 昭和10年頃に創られたようです。
飯玉神社は分布に特徴のある神社で、上野国の利根川流域、利根川と烏川の分岐点を中心にこの川沿いに新田郡、那波郡、群馬郡東部にかけて分布する神社で、隣接する埼玉県北部にもいくつかその分布が見られるそうです。
起源については古墳時代末期説がありますが、何分時代が古すぎて神話の領域であり、考古学的な証拠は難しいそうです。
ひとつ言えることは飯玉神社が立っているあたりは、古墳時代の遺跡が多く発見されていることらしく、御由緒書きにもそのことばかりが書かれています。
御祭神は女神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。
考証:広域な被災を受けた地域が古墳時代の農地復興を行うにあたって、なんらかの保食神による共同体祭祀が、復興を進めた地域の指導者によってはじめられたのではないか。
それが火雷神社や飯玉神社の主祭神として受け継がれた可能性があるのではないかと。
しかし、この祭祀に関しては、今のところ考古学的な証拠は全くありませんとあります。
古い村の人格。
(原文)旧村社格。
名前 |
飯玉神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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平穏な日行きました掃除がゆきとどいておりきれいな空間でした大木がすごいですね!写真を取り忘れました(涙)