古木があり、パワースポットです。
旧村社。
御祭神:誉田別命(ほむだわけのみこと)。
資料によると、第73代堀河天皇の御代、源義家が 奥州征伐の帰途にこの地に立寄り、東方鎮護のため金幣を奉って祈願したという。
以来、土地の人々は、鎌倉の八幡宮を深く崇敬し、土地の開拓の産土神として当社を創建して、今に至るという。
字砂田に、岡部六弥太忠澄の家老の一人が陣屋を築くに際して、八幡社をその鬼門除の神と崇めて、現在の社地に移転されたともいう(12世紀頃?)。
また、字八幡裏八五番地にあった当社だったが、後土御門天皇の御代(15世紀末)に、現在地に遷祀されたという。
例祭には古くより獅子舞の行事がある。
徳川時代中期より、剣道太刀打の行事もある。
とあります。
当社は永く近隣住民の厚い尊崇を集め、郷土の先人渋沢栄一翁や尾高惇忠翁との縁も深く、渋沢翁揮毫の扁額や尾高翁揮毫の幟などが残されているそうです。
参道が南から入るのですが、拝殿は東向きです。
古木があり、パワースポットです。
旧村協会(原文)旧村社格。
名前 |
八幡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
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町田八幡神社御祭神 誉田別命(応神天皇)境内社 天満宮 八坂神社 社宮司稲荷神社 社日神社由緒深谷市町田字八幡前に鎮座する村社八幡神社は、旧榛沢郡町田村の総鎮守で、古くは八幡宮と称しました。
昭和五年(1930)刊行の「大里郡神社誌」によれば、創立年代は不詳ですが、社伝及び古老の口碑に、第七十三代堀河天皇の御代、源義家が奥州征伐の帰途にこの地に立ち寄り東方鎮護のために金弊を進奉して祈願し、爾来この地の豪族が鎌倉の八幡宮を信仰していたため、この地に勧請して産土神として深く崇敬したと伝えられています。
また、源平時代に、字砂田に岡部六弥太忠澄の家老が陣屋を築く際に、当社を鬼門除けとして崇め現在の社地に移転したとも、現本庄市の滝瀬村字元八幡から現地へ遷祀されたとも伝えられています。
その後も永く近隣住民の厚い尊崇を集め、郷土の先人渋沢栄一翁や尾高惇忠翁との縁も深く、渋沢翁揮毫の扁額や尾高翁揮毫の幟などが残されています。
幾星霜の風雨に耐えた社殿は、大正三年(1914)に修復工事が実施され、昭和の後期にも老朽化が著しく進行したため、取り敢えず本殿のみを修復する事に決しました。
世は平成となり、残された幣殿拝殿も老朽化が更に進み、事態を憂慮した総代会は協議を重ね、建設委員会を設置、委員会では近郊の新築された神社の視察を行い、幣殿拝殿の新築が正式に決定、平成十六年(2004)一月に旧幣殿拝殿を解体し、十月吉日に新幣殿拝殿の完成をみました。
併せて境内に合祀される天満宮並びに天王様、社宮司稲荷神社も新築しました。
(八幡神社幣殿拝殿改築記念碑より)深谷市指定無形民俗文化財「町田獅子舞」深谷市町田地区に古くから伝わる獅子舞があります。
十月の八幡神社秋の例大祭には「棒遣い(剣道太刀打ち)」「獅子舞」が奉納されてきました。
獅子舞は、法眼・男獅子・女獅子の三頭からなり、特徴は、獅子頭が古くからのもので、法眼獅子の角に「天下一」「日下開山六太夫」の銘があることから、安土桃山時代の作とも、また太閤秀吉から与えられたものとも伝えられています。
(サイト「地域文化資産ポータル」より)