海が見えて景色が良い公園。
徳川家康や明智光秀の大河ドラマの影響もあるのかよく整備されていました。
元々は新田義貞の南朝方の拠点の一つですね。
自害した尊良親王の碑もありました。
堀切なども良く残っていました。
織田・徳川軍が落城した城です。
結構キツイ登山でした。
同時に落城された手筒山と繋がっているようですが、金ヶ崎城跡しか登れませんでした。
展望台からの眺めがとてもいいです。
海風が強く、カメラが持っていかれそうになりました。
真田戦記金ヶ崎城跡にて9月10日早朝に金ヶ崎城跡に行って参りました。
前日深夜から近江・長浜に夜営し、10日早々に越前に討って出ました。
途中些か道に迷いましてな。
コジンマリとした集落に金ヶ崎宮の看板を見つけ現地に到着いたしました。
本日は残暑が戻った感あり、汗だくになりつつ、山頂を目指しました。
登山中、地元の年配の方と思われる方が清掃されているので、(そこの御仁、朝早くから御苦労に存ずる、あ~某は武田晴信入道信玄が家臣、武藤喜兵衛(真田昌幸)と申す若輩者で、我等武田と同盟関係にある織田・徳川・その他多勢の方々に主の代理で戦勝祝いを言上しに参りましてな。
今度の戦は織田勢の楽勝でござろう。
(本音は失敗を願う) )と、たわけた事を考えながら山頂に到着しました。
山頂からの日本海の眺めは、なかなかのものでございます。
史実では金ヶ崎城には朝倉景恒が4500の手勢で守っていました。
攻め手の織田勢は30000。
指揮を執るのは、織田信長・徳川家康・羽柴秀吉・明智光秀・松永久秀と後世、天下に名を轟かせた名将がキラ星の如く参陣しておりました。
某が思うに、朝倉義景は、この時点で浅井長政が後背を突くのを確信していたのでしょう。
さもなくば、あの海に面した難所に4500の戦力を有しながら、いとも簡単に落城する訳がありません。
言わば、囮の様な物です。
その後、日本海さかな街で、焼鯖を頂いてから帰国の途につきました。
金崎宮への参拝の後に展望台まで行きました急な坂や途中で降り出した雨で苦労しましたが素晴らしい見晴らしでした坂を登りながら歴史を感じれる良い場所です。
雰囲気のある山城跡でした。
ハイキングコースにもなっていますので、紅葉狩りにも良いかと思いました。
金ヶ崎城跡(昭和九年三月十三日国の史跡に指定)金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって高 く 厳なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったこ とがわかる。
南北朝時代の延元元年(一三三六)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂 落城、尊良親王、新田義顕(義椅子) 以下将士三〇〇余名が亡 くなったと伝えられる。
戦国時代の元亀元年(一五七〇年)四月には、織田信長が朝倉義 討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が教質に 進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との問 に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんが り)を務めてこの難を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。
またこの殿(しんがり)での危機を救ったのは 家康で、後の天正十四年(一五八六)家康上洛にあたり、秀吉に金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。
すでに十五、六 年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦 いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。
また、最高地(八六メートル)を月見神殿といい、近くには 金ヶ崎古城跡の碑がありこの辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。
ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことが出来る。
中腹には金ヶ崎宮が創建されていて毎年境内の桜 が咲くころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的 にも大変珍しい「花操祭」が開催されている。
お城の跡のイメージがわきませんが敦賀新港の景色が大変綺麗。
ちょっとしたトレッキングになります。
頂上に古墳もあり。
中腹にある金崎宮をお詣り後、花換の小道を通って、標高86メートルにある月見御殿址まで登りました。
散策にはちょうどいい距離で、途中には枝の隙間から見える敦賀ターミナルの巨大な貯蔵タンクや、頂上の月見御殿からは防波堤と敦賀港が見え、遠くの薄ぼけた山の見える辺りに越前海岸も伺えました。
眺望はホントに素晴らしかったです。
頂上までの間に墓所や古墳もあり、歴史好きにはもってこいの場所でした。
金崎宮で御城印の販売もあり、1枚記念にいただいてきました。
南北朝と戦国時代の二度に渡り激戦が繰り広げられた城。
金ケ崎城跡。
確かによく整備されていますが、なんかもの足りません。
海は絶景です。
金ケ崎城跡から天筒山城跡にかけてのルートが星5つですね!天筒山城跡の方が標高が高く、尾根づたいに結構な距離をアップダウンを繰り返しながら登っていきます。
その間に、いくつもの土橋や堀切みたいな地点が多く残っています。
天筒山城側から登ると最初がかなりキツいので、金ケ崎城側からがおすすめです。
所要時間は1.5時間~2時間くらいでしょうか。
いろいろな城跡に行きましたが、いい!と思います。
戦国の世の歴史を堪能しつつ散歩がてらに訪れらるのに最高の場所ではないでしょうか。
月見御殿址から見える風景は最高ですし森林浴も楽しめます。
ちょっとしたトレッキングですね。
戦国時代の有名な戦場に来ることができ感慨深い。
確かにこの場所では袋のネズミになってしまう。
すぐ撤退の判断ができた信長公はさすがだ。
それにもまして殿を見事に果たした藤吉郎殿はもっとすごい。
どうやって逃げたのだろうか。
海を背に城に立て籠もったら討ち死に必須。
どのような戦略を練ったのか非常に興味がある。
そんな事を考えながら城跡の細い道を考えながら歩くととても面白い。
展望台は海を見下ろせるようになっており、眺望がとても良い。
金ケ崎城と言えば、あの有名な「金ケ崎の退き口」(金ヶ崎崩れ)があります。
元亀元年1570年4月25日は、織田信長は朝倉義景討伐の軍をおこして、徳川家康、豊臣秀吉とともに、敦賀に進軍します。
これは元禄11年1568年9月信長は足利義昭と共に、上洛を果たします。
このとき、各大名に上洛し、挨拶をするように、言い伝えました。
他の大名は、上洛するも、朝倉義景は上洛をしなかった為とか、朝倉家が三好一族と結びつき信長を左右から攻めるとした不穏な動きがあったなどの理由で朝倉攻めの兵をおこしたのです。
朝倉家が納めていた金ヶ崎城、金ヶ崎山86メートルの山頂の枝城としての手筒山城は天筒山171メートルの山頂に城がありました城🏯を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井氏が朝倉の味方をし、福井方面(木の芽峠から天筒山の奥)からは朝倉の援軍が、近江の県境(8号線)から浅井軍に挟まれ窮地に陥ります。
信長は急遽総退陣、関峠を通り若狭方面に退却しました。
金ヶ崎城には、豊臣秀吉や明智光秀などを残し、しんがりの守りをしています。
信長のまもりは、10名程度しかいません。
敦賀港の反対側に稜線ずたいにある手筒山、金ヶ崎山の突き出た半島がある地形で、山側からの左右から攻められ、退却するにも限られていて敦賀港沿いから関峠を越え若狭にいきます。
現地に行けば挟まれて、絶対絶命の地形なのが良く実感できます。
若狭から朽木元綱が納める近江朽木を越え(朽木越え)、京には4月30日ついています。
朽木は信長が隠れた岩などがのこっています。
信長の妹、お市のかたは浅井の正室は、危機を兄信長に知らせる為、両端を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中に届けたと言う逸話がのこっています。
麓にある金ヶ崎宮はこの逸話をもとに、(小豆袋守り)難関突破守りを授与しています。
その後信長は岐阜城🏯にもどり、大勢を立て直し、6月には、姉川の闘いを信長と家康連合軍と朝倉家、浅井家連合軍としてたたかっています。
3年後の1573年には、浅井家の小谷城🏯は陥落し、浅井家、朝倉家は滅亡します。
金ヶ崎城へは、JR敦賀駅から3番乗り場の敦賀周遊バス🚌で10分金ヶ崎宮下車し、徒歩10分で山頂金ヶ崎城跡までいけます。
鬱蒼とした木々の山道にひぐらしの鳴き声が響き渡り、浸れる雰囲気を味わえます。
戦史が好きな人には良いかも。
掲示板が充実してて良いと思います。
階段等も整備されてます。
ただ、ほぼ山登りなので靴には気を付けた方が良いかと。
金ヶ崎の戦い1570年(元亀元年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)率いる「朝倉軍」が対峙した。
約3万の織田・徳川連合軍に対し、約4,500の朝倉軍。
当初は、織田・徳川連合軍が優勢でしたが、織田信長の義弟「浅井長政」(あざいながまさ)の裏切りにより、形勢逆転。
戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている。
当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入った。
はじめ信長は「虚説たるべき」(『信長公記』)と述べとりあわなかったが、次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、撤退を決意した。
信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。
京への到着は4月30日(6月3日)。
信長の供はわずか十人程度であったという。
いい散歩コース🚶u200d♀️景色もいいので、春に最高です!
標高86m。
神社あるある(^^;花換まつりで桜咲いてた(^o^ゞ主郭は月見御殿とも云われるそうで、眺めバッツグ~ン..のはずが今日は雨.f(^_^;霧がかってて幻想的でもある(’-’*)遺構は木戸跡の堀切からの竪堀、そして~畝状竪堀群がすばらしく残ってるではないか~♪o(^-^o)(o^-^)o公園化されててもウネタテが見れるトコは良いんでないかい。
平日の夕方に寄りましたが、人の気配が無く、夕暮れ時の街並みがとても綺麗でした。
調子に乗って駐車場からの道とは違う道で帰ろうとしましたが、これが結構不安になるような道でして、途中セメント工場の景色を横目で見つつ、どこをどう間違えたのか、歩き続け下った先は永厳寺の墓場の横に出てしまい、8号線は通行止めになっていたので通れず、夜道墓場の中を進み永厳寺の敷地から8号線の下をくぐり抜けて、元の金ヶ崎城址駐車場へ戻りました。
懐中電灯を持ってくればよかったです。
暗くなると不気味ですね。
今度は明るい時に来たいです。
でも不思議と落ち着ける場所でした。
あと、金崎宮のあたりはライトアップされていて良い雰囲気でしたよ。
南北朝の内乱の新田勢といい、戦国時代の織田勢といい、この城を拠点にするとロクな目に遭わない感が否めない。
撤退戦で何とか切り抜けた織田勢と、援軍を求める為、新田義貞らが脱出し、取り残された後、落城され自害した尊良親王や長男新田義顕の新田勢との結末の違いはあるけど…。
城跡公園としてよく整備されている。
中世のお城なので素晴らしい建造物や石垣があるわけではないがある程度郭がしっかりわかるので興味深い。
城跡全体はぐるーっと一周する感じで約40分。
整備された道や階段とはいえ急な勾配の箇所もありイージーな道とはいいがたい。
見所としてはやはり最高所である月見御殿跡か。
見晴らしはとても良い。
ほか、三の木戸、二の木戸あたりにある綺麗な堀切はまさに見所である。
どれが遺構なのかわかりにくいので、そのあたり説明板の設置は急務であろう。
城跡目的のみの探訪だと少し物足りないかも。
ハイキング感覚での訪問がよかろう。
昇るのはしんどいですが、良い眺めでした。
城跡は、ココ?、っと言うところ。
先に行くと、大規模な火力発電所とセメント工場が上から見える。
場所に着くまでは町中をグネグネ曲がったりと迷います。
着くと駐車場は無料で、トイレも水洗であります。
夜の景色も電飾が綺麗です。
公園として整備されすぎている為、あまり遺構を感じない。
展望から見える石炭の山に興ざめ。
海が見えて景色が良い公園。
金ヶ崎の退き口 ギリギリで逃げた信長。
歴史の紙一重を感じる。
2011.09.11. 月 15:20 初来訪 (奈良人)金ヶ崎城は 典型的な山城で しかも三方が崖になって折 要塞の様に固い守りが特徴の城です しかし一方では 攻め込まれると逃場がナイとか 兵糧攻めに合うと たまったモノでは有りません現に南北朝時代の 後醍醐天皇 対 足利尊氏の戦いに於いては 兵糧攻めにも合い 南朝方の兵300名の命が失われ敗北しましたなお 金ケ城の築城は 平安末期の1180年頃で 築城主は平家の武将 平通盛(タイラ ノ ミチモリ)で 現在は城戸跡が僅かに残るだけで とても残念でしたもた近くには 小さな古墳(円墳 竪穴式石室)が有り 説明板には 副葬品に直刀一振 銅鏡一面が出土したと有りました更には直ぐの遊歩道 最北端の崖に設けられた展望所からの眺めは 素晴らしい景観で コレを見るためだけに登って来ても 価値は 十分に有ると思いますヨォ❗
名前 |
金ヶ崎城跡 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
0770-22-0938 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
神社あったり城趾あったり景色も良くて良かったですね。
時間なかったのですべて回れませんでした。