28曲りを登りきるとあります。
加藤文太郎の単独行にある地蔵堂。
現在の建物はトタンの波板を打ち付けただけのもので当時の様子を知ることはできない。
氷ノ山(ひょうのせん)を福定親水公園から登る途上で休憩、お参りさせていただきました。
最近、氷ノ山は「ひょうのせん」という呼び方が定着してきました。
ただ、昭和50年代まで兵庫県では「ひょうのやま」や「ひょうやま」と呼びました。
これに対して、鳥取県では昔から「ひょうのせん」という呼び方が一般的でした。
因幡国では修験道が盛んで、山を聖地として「せん」と呼びんだからだと説明されています。
また氷ノ山は、他にも須賀ノ山(すがのせん)や四ケノ山(しかのせん)とも呼びました。
福定の親水公園から氷ノ山登山コースを約2時間登ると、鳥取県の県境にある峠に到着します。
ここは標高1,234メートルで、鳥取へ通じる「氷ノ山越え」という街道の峠にあたります。
昔、山中鹿之助・島津家久・八木豊信などの武将たちも通りました。
街道の峠には石で作ったお地蔵さんがあります。
ここには、江戸時代中頃まで、地蔵堂がありました。
伝承では慶長11年(1606)、村岡藩が旅人の休憩所として領地内に26か所の辻堂を整備しました。
その一つとして、標高1,230メートルの「氷の山越え」という山道の峠に地蔵堂が作られました。
現在は峠から兵庫県側におりた標高920メートルの位置、登山道に面して氷ノ山地蔵堂があります。
現在も、登山者の避難小屋にもなっています。
『七美(ひつみ)郡誌稿』という本によると、昔、氷ノ山の山頂には御手洗権現・蔵王権現・地蔵権現の3体が祀られていました。
しかし慶長11年(1606)、舂米(つくよね)・鵜縄(うなわ)・福定の集落で3体を分配しました。
その一つが、この氷ノ山地蔵堂であるといいます。
地蔵堂にある現在の本尊は、明治28年、葛畑土人形作者の第2代目、前田太蔵氏が制作した地蔵菩薩坐像です。
氷ノ山越えの道は、昔から鳥取に向かう山陰道の脇街道として重要なものです。
この地蔵堂は、もともと村岡藩が、旅人の安全を確保するために、峠の避難小屋として設置したものなのです。
名前 |
地蔵堂 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.5 |
28曲りを登りきるとあります。
名前通り、中にはお地蔵が並んでいます。