雑誌などに掲載されている石碑が3つあります周囲は素...
ここが古く大宰府の中心。
歴史を知るには天満宮以上にこちらに来るべき!
都督府古址、かな?
古代日本の九州地方を治める中心地だった大宰府の拠点だった場所です。
建物はなく跡だけ残っています。
2019年4月訪問。
空が広い! 万葉人が暮らしたのと同じ風景の中で、人生の残りを新しい時代で過ごすことへの期待を膨らませました。
大宰府政庁跡の正殿跡には、雑誌などに掲載されている石碑が3つあります😊周囲は素晴らしき自然🤣とてもいい場所です😃
正殿跡は、大宰府政庁の中心建物です。
現在は、3本の石碑が建つ場所であり、かつて基壇だったことをうかがわせる高まりと、建物の柱を据えた礎石が残っています。
u200b遺跡調査によって、7世紀末の掘立柱建物跡(Ⅰ期)、8世紀初頭に建てられた大宰府政庁正殿跡(Ⅱ期)、10世紀後半ころに再建された正殿跡(Ⅲ期)が確認されました。
地表に見えるのがⅢ期の正殿跡です。
Ⅱ期は、唐長安城を参考に平城京造営関係者によって建築されました。
903年に大宰府で亡くなった菅原道真が「都府楼」と呼んだ政庁の中心建物です。
これは941年「藤原純友の乱」で焼失しますが、その後ほぼ同様の姿で再建されました。
Ⅲ期の礎石は、Ⅱ期正殿の礎石を再利用したものと考えられています。
礎石の柱座は二重三重に盛り上がる壮麗なもので、他に例を見ません。
この特別な礎石が、建物の格の高さを物語っています。
正殿の前は、庭(空間)より若干高くなっています。
宮殿の大極殿前にみられる「龍尾道」・「月壇」と呼ばれるものと同じと考えられています。
ここにも宮殿構造を見ることができます。
所在地:太宰府市観音寺4丁目530指定日:昭和28年3月31日太宰府の長官である帥が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式でもっとも重要な役割を果たした場が「正殿」にあたる。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統括していた。
京都での元旦拝賀を参考にすれば、太宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
礎だけが残っていました。
見晴らしがいい。
後ろに大野城、鬼門の方向の斜め後ろに宝満山、目前に政庁跡と朱雀通りが広がる。
名前 |
大宰府正殿跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.5 |
素敵な公園になってますね。
広くて壮観です。