7世紀末に筑後国府が成立する以前の公的な施設跡。
7世紀末に筑後国府が成立する以前の公的な施設跡。
7世紀前半から同末頃の年代を考えています。
この枝光台地の北縁下に沿って濠状遺構が走り、台地縁辺部には、幅6m、深さ3mの大溝と土塁が構築されています。
台地東側も幅10m、深さ2mの大溝、西側には高良川が北流するなど、周囲を防衛施設によって囲まれていました。
その中央部には7間×5間、平面規模が17.8m×12.8m、平面積227平米もある大型の建物がありました(発掘調査後、この公園下に保存)。
この建物は7世紀後半の建物と考えられており、『日本書紀』天武7年12月条の記事に見られる筑紫国大地震による被災の可能性が指摘されています。
当時としては飛鳥の宮殿に匹敵する西日本最大級の規模の建物であり、筑紫平野のランドマーク的存在だったと思います。
また大宰府成立以前にこのような公的施設がこの地に造られた意味は極めて大きいと思います。
名前 |
筑後国府前身官衙跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.0 |
ここには、飛鳥時代(7世紀初期から7世紀後半)筑後国府のできる前、前身官衙の正殿建物が建っていた跡です。
当時は西日本最大級の建物であったと推測されます。
この頃は、まだ筑紫の国として、筑前と筑後は別れておらず朝倉には、斉明天皇が朝倉橘広庭宮をおき白村江の戦いの後、大野城や基肄城等が築かれて中国軍の遠征にそなえました。
この前身官衙は、その為の軍事的な場所としても重要な場所だったと考えられます。