来島氏の執念が伺える。
関ヶ原の合戦で西軍についたにも拘らず、許されて豊後森1万4千石を与えられた来島氏(2代で久留島に改姓)の陣屋跡です。
元々海賊だった久留島氏は飛び地として別府に港があるもののほとんど内陸の地を領する事になった為、陸に上がった河童を地で行く破目になりました。
家格が低いからという理由で角牟礼城に入る事を許されず、陣屋を造るに当たっては僅か1万4千石とは思えないほどの贅の尽くしようが見られます。
故郷 伊予大三島から勧請した三島宮(現 末廣神社)に見られる石垣、天守に見立てた栖鳳楼、陣屋内3ヶ所に及ぶ庭園など本当に幾ら位掛かったのか気になります。
森藩は領内で産する明礬を貴重な財源にしていたらしいのですが…
関ケ原合戦時に西軍についた来島氏、西軍敗戦の後所領没収に合うが妻の伯父である福島正則のとりなしにより豊後国の内陸、森に1万4千石与えられる。
水軍で名をはせた来島氏も水軍としては終焉を迎える。
来島氏はその格式のたえ城を持つことを許されず、角牟礼城を廃し、麓に陣屋を置いたこれが森陣屋(久留島陣屋)である。
福島正則が改易になった際は、連座になることを怖れた来島氏は、久留島と名を改めた。
幕府の目があり城は建てられないが、末廣神社は石垣造りに、天守の代わりに栖鳳楼(御茶屋扱い)を建てている。
大手門は清水御門になり、陣屋跡の御長坂から末廣神社の桜馬場まで一気に馬で駆け上がれる構造になっている。
水軍の名将来島氏の居城であり、城を持てない小大名でありながら周りに石垣を配したお城とも呼べる造りで、来島氏の執念が伺える。
久留島陣屋は角埋陣屋とか森陣屋とも呼ばれ、来島氏が関ケ原合戦の敗北により、二豊(豊後・豊前)唯一といわれる無城大名(陣屋大名)として1万数千石で封じられたことに始まります。
なお後に来島氏から久留島氏に改めています。
江戸中期には来島氏と縁のある伊予大三島の大山祇神社の祭神を勧請して造営されていた末廣(三島)神社を老朽化を名目に改築を行い石垣の改修、栖鳳楼という2階建ての茶室を設け、陣屋のシンボルとし、西側には、丸木御門と神社の正門として清水御門を配置して、陣屋全体の体裁を整えました。
名前 |
久留島陣屋址 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
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瀬戸内の村上水軍の一家である来島長親は、関ヶ原で西軍に味方して改易されましたが、福島正則の取りなしで山間部であるこの地と別府湾の頭成港1万4千石を与えられましたが、名字も久留島と改め来島水軍は消滅しています。
陣屋跡は公園として整備されていて、藩主御殿庭園や東側の土塁上には栖鳳楼(未公開)が残されています。