名前 |
海軍大佐服部潜蔵君墓誌銘 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
服部 潜蔵(はっとり せんぞう、嘉永3年11月15日(1850年12月18日) - 明治19年(1886年)12月12日)は明治時代の大日本帝国海軍士官。
通称は政介。
長府藩出身。
第二次長州藩留学生としてイギリス留学後、海軍兵学寮教官、比叡副艦長を務めたが、病気により夭折した。
海軍大佐正六位勲五等。
服部潜蔵墓誌銘<読み下し>枢密顧問官中将正三位勲一等伯爵川村純義篆額君諱は潜蔵服部氏。
豊浦藩江本重興第二子也母は山澤氏。
幼くして同藩服部宗茂の後を承く。
君生頴敏(えいびん)にして志は海軍に在り。
夙に英語を習う。
年甫(はじ)めて十六、英国に遊びしは実に慶応三年三月也。
比時に当たり外交日尚浅く、情誼(じょうぎ)未だ洽(あまね)からず備(つぶ)さに艱苦(なんく)を嘗(なむ)。
居ること幾ばくもなく練習舩生徒と為り黽勉(びんべん)淬礪(さいれい)業大いに進む。
遂に彼の海軍艦隊に入る。
明治六年海軍教師を英国より聘するに、君伴い東京に帰る。
是の歳海軍大尉に任じ、大佐に累遷(るいせん)し、正六位に進む。
初め日進艦に乗る。
七年台湾之役に従う。
事平らげ従軍記章を賜う。
十年鹿児島之乱に又力を效(いたし)勲五等に叙し、年金百円を賜い前後二役之労に酬ゆる也。
十三年、比叡艦副長となり波斯(ぺるしあ)に航し、旋(つい)で鎮守府に服務す。
十四年、英国皇孫来遊し君は日に側に侍し以て周旋す。
父皇太子之を聞き大いに喜び物を賜いて謝に致す。
而して其の最も工みなる英語を以て彼の風俗に嫺(かん)たれば也。
又常に外国軍艦を応接し賓儀(ひんぎ)を助く。
十五年二月病に罹り帰郷す。
療養久うして而病益加わる。
十九年五月退職し恩給年額六百五十円賜う。
十二月十三日終に起た不(ず)生を距(へだてし)は嘉永三年十一月十五日、年三十五なり豊浦常楽寺山に葬る。
黒杭氏を配し一女を生む。
後、楢崎氏の女を娶る。
尚幼し、官は更に寡婦扶助料を賜う。
君嘗て帰郷の途に紀州海を過ぎる、乗る処の郵船一商船を撞(つ)き之を破る。
郵船長は外国人也。
恬(てん)として顧みず。
君大喝して曰く既に航法に違う又是を救わずば悪(いずくんぞ)船長を用いんや。
直ちに本船を停す爲させ、其の小舸を発す。
時に夜暗風浪激蕩す。
水夫は皆之を難ず。
君身(みずから)率先して而進み遂に溺者数人を拯(すく)う。
其の事に臨みて勇敢なること比(かくの)如し。
而して平生人に接するに温温如也。
其の病に就くや行歩に艱し、身體日に以て憔悴す。
而るに気益壮にして海軍を思らゆ愈(いよいよ)切なり。
哀しき哉(かな)天之に年を假し、以て其の力を窮めしめざるなり。
訃を聞き悼惜(とうせき)せざる者莫(な)し。
而して海軍将校之君を知る者相会し遥かに時羞(じしゅう)を具にし以て祭る焉。
今茲に孤寡(こか)親戚と共に相謀り其の兆を表さんと将に予に銘を講う。
予已に君を知り而之を挙ぐ。
安(いづくんぞ)誌して而銘せざるを得ん。
銘に曰く 彼の鯨涛を截(き)り 我が辺城を安ずるは 実に海軍爲り 君其の術を修む 職は勤労に有り 永く恩恤(おんじゅつ)を蒙る 道中ばに逝くと雖(いえど)も 業始卒を有す明治二十一年六月 元老院審議官海軍中将従三位勲一等子爵 伊東祐麿撰 元老院審議官従四位勲四等金井之恭書 井亀泉刻字。