前々から見に来たかったスポットです。
歴史、源氏と平家の戦いなどに興味がある人にはおすすめかも、隣にキッチンカーなどが集まったスペース(はらぺこまるしぇ)があります。
壇ノ浦の戦いの逸話の残る井戸で、前々から見に来たかったスポットです。
隣にはキッチンカーも来ていて食事も出来るようになっていました。
関門海峡も見渡せてとても良いところです。
歴史についてはみなさんのおっしゃられる通り。
大晦日の夜には、ここで水を一杯汲み上げ、赤間神宮まで運ぶ風習があります。
この儀式はたった数人で行われており、マスコミも立ち会っていないんじゃないかな。
ネットでも見かけないですね。
はらぺこマルシェってキッチンカーがいて、スパゲッティとドリンクで千円だったのだが、スパゲッティが結構量がありお腹いっぱいになった。
雨が降り出したので持ち帰り変えてもらったけど、天気が良ければ景色を見ながらのランチにはいいかも。
下関市街地から離れてるし下り車線からしか入れないから交通の面では不便なところではある。
この地域の風景は素晴らしいです。
一日中座ってリラックスできます。
ちょっと瞑想です。
また、下関や門司別館関門エリアは歴史に満ちています。
これはそのうちの一つです。
この地域を訪れる前でも後でも、歴史について学びます。
(原文)The landscape of this area is magnificent. You can just sit and relax here whole day long. It's kinda meditation. Moreover, Shimonoseki and Mojiko a.k.a. Kanmon area is full of history. This is one of them. Whether before or after visiting this area, you will learn about history.
源平合戦の激戦の海、幕末の四カ国連合艦隊との戦争の海、そして第二次大戦での機雷投下の海となりました。
-------平家のいっぱい水四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。
寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。
いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。
このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。
海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。
そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、「いまこそ、平家をたおせ。
進め、進め」と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。
平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。
平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。
(注)前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。
このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。
それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。
『下関の民話』下関教育委員会編。
景観がとてもキレイです。
源平合戦の激戦の海、幕末の四カ国連合艦隊との戦争の海、そして第二次大戦での機雷投下の海となりました。
-------平家のいっぱい水四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。
寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。
いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。
このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。
海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。
そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、「いまこそ、平家をたおせ。
進め、進め」と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。
平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。
平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。
(注)前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。
このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。
それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。
『下関の民話』下関教育委員会編。
「平家の一杯水」の案内の石碑は国道9号線沿いにある。
壇ノ浦の合戦で負傷した平家の武将がやっとの思いで、岸辺にあった湧き水を口にしたところ、一口目はおいしい水だったが、二口目は海水に変わっていたという伝説に基づいている。
門司側にも全く同じ伝説があるのが興味深い。
バイクでないと止めれません。
自転車で少しの距離をツーリング。
古墳時代から平安時代末期までを走ったのである。
ここは壇ノ浦、「驕る平家は久しからず」か。
この場所はそれを物語っているかもしれんな。
名前 |
平家の一杯水 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
歴史的にいろいろあるところ。
詳しいことはわかりませんが、この目線で関門海峡と関門橋が見れるのは貴重かな。
笑。