漁港も商港も、すべて海であったころの話。
羽根石現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。
弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。
その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。
むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。
その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。
すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。
それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より(注)羽根石のあった沖の洲は、内務省による大和町埋め立ての際に姿を消し、石船から海中に捨てられた大石群は、昭和四十三年、第四港湾によって引き揚げられ、現在は赤間神宮境内に『太閤石』と名付けられて保存されている。
但し、同神宮の『太閤石由来文』はこの話といささか異なるようである。
駐車場の一角にあって歩道歩いていると見落としてしまう。
羽根石現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。
弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。
その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。
むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。
その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。
すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。
それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より(注)羽根石のあった沖の洲は、内務省による大和町埋め立ての際に姿を消し、石船から海中に捨てられた大石群は、昭和四十三年、第四港湾によって引き揚げられ、現在は赤間神宮境内に『太閤石』と名付けられて保存されている。
但し、同神宮の『太閤石由来文』はこの話といささか異なるようである。
名前 |
下関市指定有形文化財 旧内務省下関土木出張所下関機械工場乾船渠 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.0 |
今は埋れて、縁取りがかつてのドックを偲ばせますが、知らなければ駐車場の一部なので気が付かないでしょうね。
近くにパネルの紹介があります。