こんな高い所に金蔵があったんやねー。
こんな高い所に金蔵があったんやねー。
その名の通りの金蔵跡。
小藩分立する豊後の国の中では比較的岡藩の財政は安定していたと言われるが、文化八年、農政のあまりにも厳しい引き締めと、一部の商家が不当に利益をあげていた事、諸般の理由に堪忍袋の緒が切れた四原と言われる4つの村が起こした一揆に無条件降伏にも似た、要望の殆どを受け入れると言う解決策で応じたことがある。
さすがの岡城も民百姓の反乱から身を守るわけにも行かなかったご様子。
俗にいう「四原一揆」である。
脱線しましたが、その後も物価のインフレは慶応年間まで穏やかだったように伺えますが、金蔵にどのくらいの蓄えがあったかはよく知りませぬ。
廃藩置県の折には、藩の大きさによって爵位などが定められましたが、岡藩は小藩の石高なのに中藩待遇で爵位が付された、記録では中藩として認められる金額が納められていたそうな。
織豊時代より潰れずに廃藩置県まで残り、藩祖中川清秀は豊臣秀吉と対等の盃を交わした義兄弟と、由緒も正しい家柄なのも考慮されたのかもしれません。
鉄道、新幹線、高速道路、飛行機、現代の交通と流通の形になる前は、岡藩一帯は、中九州の交通の要衝で、利便性の高い城下町はさながら百貨店、今で言うショッピングモール状態、それが大正の頃まで重宝されたそうで、金蔵が特別にあつらえられるほどには金銭があったのでしょう。
名前 |
金倉櫓跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0974-63-1111 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.8 |
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金庫跡デカすぎ!