名前 |
薬師山 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
東連寺公園から西鉄大牟田線を挟んだ小高い丘は、薬師山と呼び、頂上には昭和34年9月に建立された蓮花堂(納骨堂)を始め、個人所有の先祖の墓、薬師堂、地蔵堂、十三仏堂の祠堂や菩薩、仏像、そして法華塔、大行事塔、梵字塔などが祀られている。
年間を通じて参拝が、あり、特に、春、秋の彼岸、孟蘭盆には参拝者が多い。
「薬師堂」には薬師如来座像、十一面観音立像、千手観音が祠に合祀されており、筑紫四国九十番札所として、春、秋の彼岸詣りが行われている。
納骨堂の『蓮華院』は、戦後区民の要望により建設の声が高まり、通古賀に縁の深いここに建立され、昭和30年9月13日に落成式が執り行われた。
平成9年には、蓮花院への上り参道に、鈴木徳之助(和田仁三氏弟)の寄贈による手すりが設置された。
この「蓮花院」の西側にある「地蔵堂」には、石造り地蔵菩薩立像と自然石の菩薩浮彫の座像が合祀されている。
陶山四郎の『王城神社縁起(考)』によると「楠の木の根元にあった早馬大明神の地蔵は明瞭なものはない。
明治の初めの神仏分離令施行後、薬師山に移したと聞いている」と書いてある。
王城神社の楠の木の根元にあった地蔵は、後者の古い自然石の浮彫ではなかろうか。
もう1つの立像は、後年合祀されたものと思われる。
また、薬師堂に並んで東向きの細長い祠の中に同じ大きさの座像が十三体祀ってあるのが十三仏堂である。
石碑によると、明治後期に建設されたものを、昭和戦後村中の有志ね寄進により改修された。
十三仏とは、不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、彌勒菩薩、薬師寺如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空菩薩である。
この十三仏は、亡くなった人の法要を行うため、追善供養を執り行ったことに由来する。
このような供養は室町時代から盛んに行われていたようである。
これらの小祠や仏堂の勧請(神仏を他の場所に移し祀ること)の際の儀式や祭祀などには山伏などの宗教者が関係した。
特に通古賀は、宝満山が近いので、宝満山の、山伏の関わりが多かったと思われる。
薬師堂から少し離れて法華塔の石碑が建っている。
法華塔は、宝永八(1758)年陶山八之助促(せかる)の寄進によるものである。
八之助促は13歳で黒田四代目藩主綱政に召出され、藩主の信任が篤(あつ)く、後に宗旨奉行となり禄高三百石の黒田藩士であった。
法華塔に書かれた三文字は八之助促の筆によるものどある。
昔、八之助促の祖先といわれた田中熊別が神武天皇に仕え、東夷の平定と武運を祈願したことにちなんで、大野城(四王寺山)に対面することを配慮して北向に立っている。
また一つの石に法華経を一字ずつ書いた「一字一石」が納められていると言い伝えられている。
南側登山口からすぐ目につく大行事塔は、滋賀県大津市の日吉(ひえ)神社(山王二十一社)のなかの大行事宮が英彦山の鎮守神として観請され、さらに英彦山や宝満山の修験者(山伏)によって広められたものの一つである。
神社として祀られている所と大行事塔として信仰されている所と二通りがある。
もともと大行事は牛馬の安全。
五穀豊穣、村の守り神として信仰されていたものであったが、昭和30年代以降、機械化によって牛馬がいなくなり、それにつれて祭りもほとんど行われなくなった。
通古賀の大行事塔の建立は、安政七(1860)年3月で、この2年前には全国的にコレラが大流行し、三万人からの死者が出た。
このため、牛馬の守護のみでなく、人間の安泰を祈るために、区中で建設されたものと思われる。
る。