結構急な坂のところに入り口があります。
トイレは有ります。
手桶がずらーっと置いてある場所の右奥で、檀家さんに限らずどなたでもご利用可能かと思います。
ご近所の方でも長い間、存在に気付かなかったそうなのですが、散歩の延長で訪ねてみたら眺めや雰囲気も良かった、とのことでした。
北海道から訪ねて来られた方も!
江戸五色不動の一つで豊島区高田二丁目にある平日に訪問参拝者はいなかったのでゆっくりとお参りができました。
目白不動はお堂の中に安置されています。
目白不動というが目が白いわけではありません。
場所は目白通りの宿坂を降りきったところの右手にあります。
結構急な坂のところに入り口があります。
厳粛な雰囲気が感じられるお寺で、参拝者もほとんどいませんでした。
東京都って、こういう歴史あるお寺が多いですね。
御府内八十八ヶ所の三十八番の御朱印を頂きました。
三十八番と五十四番の御朱印を一緒に頂くことができます。
とても静かで綺麗なお寺です。
私は順番にご参拝してますのでまたきま〜す。
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。
隣接の墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年造立の鍔塚など多くの石造物があります。
金乗院は開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請し観音堂を築いたのが草創とされ、天正年間(1573-92)頃と考えられます。
当所は蓮花山金乗院と称しましたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となります。
有り難く、御府内八十八ヶ所第38番”聖観世音菩薩”と、御府内八十八ヶ所第54番と、関東三十六不動第14番札所”目白不動明王”の御朱印を頂きました。
東京都豊島区高田にある真言宗豊山派の寺院『金乗院』さん。
江戸三大不動・江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っている目白不動明王が祀られている。
目白不動明王が祀られているが秘仏となっている。
この不動明王は明王自ら左腕を断ち切りそこから火焔が噴き出しているという独特の姿をしており、特別に強い力があるという。
●山号: 神霊山●名称: 神霊山金乗院慈眼寺●住所: 東京都豊島区高田2-12-39●宗派: 真言宗豊山派●本尊:・聖観世音菩薩像(本堂)・目白不動明王像(不動堂)●創建年: 1594年以前●開基: 永順●別称: 目白不動、目白不動尊●札所等(金乗院):・江戸三十三箇所 14番・御府内八十八箇所 38番●札所等(新長谷寺)・江戸五色不動・関東三十六不動 14番・御府内八十八箇所 54番●由来(金乗院)・1573年〜1592年、永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作り開山。
・当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称したが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となる。
・第二次世界大戦による戦災で本堂などが焼失。
・1945年、廃寺になった新長谷寺から『目白不動明王像』が移され、金乗院が『目白不動』に。
・1971年、本堂再建。
●由来(新長谷寺)・弘法大師が出羽・湯殿山に行き修行を行っていた際に不動明王像を造られた仏像。
・武蔵国関口に住む者の手に渡る。
・1618年、奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興された。
・秀算は二代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名した。
・寛永年間、徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名を贈られる。
・1945年、第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、廃寺に。
・1945年、本尊の目白不動は金乗院に移さる。
●御朱印:有り・寺務所にて初穂料300円で直書きの御朱印を拝領。
・受け答え、対応共に丁寧で素晴らしく、気持ちよくお参り出来ました。
東京の五色不動のひとつ。
もともとは関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和20年の戦災により焼失したため、金乗院に合併し本尊の目白不動明王像を移しました。
目白不動明王は江戸守護の五色不動の随一として名高く、目白の号は寛永年間に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。
五色不動のひとつ目白不動尊に行ってきました。
地下鉄雑司が谷駅で下車いたしますと、運の良いことに目白不動尊まではずっと下り坂になります。
これがもし逆から行っていたらずっとこの長い坂を登らなくてはなりませんでした。
行きは雑司が谷から下りで、帰りは都電荒川線の学習院前駅を抜けて西早稲田の方に向かうと諏訪神社もあるので参拝しながらお散歩でよい感じになります。
目白不動尊は本堂の脇にあります、くりからふどう?と読むのでしょうか、ちょっと見逃しそうなおおきさなのですがとても素晴らしいので必ず観ていただきたいです。
江戸五色不動尊の目白不動を祀っていた新長谷寺は第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、廃寺となり、目白不動は金乗院に移され、今では金乗院不動堂の秘仏として信仰されている。
地名由来のお不動様が駅からずいぶん離れた場所にあったから、てっきり無くなったのかと思いました。
江戸時代に目赤・目黄・目青・目白・目黒の五色のお不動様を江戸を守る結界として安置したそうで、その名の通り、目の色が違うらしいですね。
さすがに目白と目黒以外は語呂合わせというか、発音しにくいから地名にならなかったようですね。
江戸時代には五色不動尊がありました。
結界を意味したらしく江戸を外敵から守るために作られたとかご府内八十八ヵ所巡りのお寺でもあります。
何と言っても江戸時代には時間を知らせる時の鐘があります。
こんなところにと思いますが、行ったときには確認してください。
こちらと南にある南蔵院に向かいました。
2018年10月20日(土)午後3時過ぎに訪れました。
金乗院慈眼寺さんの境内にちょこんと御堂が奉られています。
u003du003du003d wiki抜粋(目白の名の由来) u003du003du003d新長谷寺(しんちょうこくじ)は、山号を東豊山(とうぶさん)といい真言宗豊山派の寺院であった。
当寺院にあった不動明王像は唐から帰ってきた弘法大師が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像で、それが武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれているがその詳しい年代はわかっていない。
その後、この寺院は江戸時代に入り元和4年(1618年)に奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興された。
秀算は二代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名した。
寛永年間に三代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名を贈り、以後この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになったという。
また一帯の高台も目白台と呼ばれるようになった。
(これは現在の地名になっている目白や目白台の起源になっている)その後、この寺院は五代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けて発展した。
また江戸市民に時を告げる時の鐘を備えていた。
しかし、新長谷寺はその後第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺となってしまった。
本尊の目白不動は金乗院に移され、現在に至るまで金乗院が目白不動尊として信仰を得るようになっている。
再訪2017/9/16拝受 再訪2017/9/16拝受 御府内八十八ヶ所霊場第38番+第54番&江戸三十三観音霊場第14番&関東三十六不動霊場第14番の御朱印4種頂きました!2016/6/25拝受 御府内八十八ヵ所巡礼第54番札所。
金乗院の中にあります。
格子の窓から不動明王の御姿が遠くに伺えました。
江戸五色不動、関東三十六不動の札所でもあります。
御朱印は金乗院で頂けます。
御府内八十八ヵ所巡礼第54番札所目白不動明王の御朱印、有り難く頂きました!
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金乗院の中にあります。
格子の窓から不動明王の御姿が遠くに伺えました。
江戸五色不動、関東三十六不動の札所でもあります。
御朱印は金乗院で頂けます。
御府内八十八ヵ所巡礼第54番札所目白不動明王の御朱印、有り難く頂きました!
2016/6/25拝受 御府内八十八ヵ所巡礼第54番札所。
金乗院の中にあります。
格子の窓から不動明王の御姿が遠くに伺えました。
江戸五色不動、関東三十六不動の札所でもあります。
御朱印は金乗院で頂けます。
御府内八十八ヵ所巡礼第54番札所目白不動明王の御朱印、有り難く頂きました!
名前 |
金乗院 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
03-3971-1654 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
都内の五色不動の一つ、目白不動です。