「ワシが断ったら誰かが行って死なんならん。
帝国最後の沖縄県知事島田叡(しまだあきら)氏。
兵庫高校のグランド片隅に合掌の碑があります。
米軍上陸が確実視された時期、「死にたくないから誰か代わりにとは言えない」と沖縄に出向き帰らぬ人となった母校の偉人。
竹中郁の「南へ」と云う歌がこちらにも刻まれていました。
知らない人でした。
執事の献身を記念して(原文)紀念知事奉獻事跡呈現。
昭和20年1月、敗色濃厚な太平洋戦争末期、「ワシが断ったら誰かが行って死なんならん。
ワシは死ぬのは嫌やから、誰かに行ってくれとはよう言わん。
」の言葉を残し、「断而敢行 鬼神避之」(断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く)を座右の銘に、南洲翁遺訓と葉隠の二冊を携え、決然と沖縄に赴いた最後の沖縄県官選知事、島田叡(しまだあきら)さん。
島田さんと運命を共にして沖縄の地に命を捧げた警察部長、荒井退造さんと共に、日本人は決して歴史の中に埋没させてしまってはいけない人だと思います。
神戸出身の島田叡さんは、神戸第二中学校、第三高等学校、東京帝国大学時代を通じて、野球の名選手であったことから、沖縄県の秋季高校野球大会優勝校には、兵庫県から寄贈された「島田杯」が授与されることになっています。
写真は戦後70年を経た2015年(平成27年)、島田叡さんが消息を絶ち、命日とされる6月26日、当時の翁長沖縄県知事と井戸兵庫県知事が揃って除幕式を行った時のものです。
摩文仁の丘平和祈念公園にある「島守の塔」と共に、人としていかに生きるべきかを深く考えさせてくれる場所です。
昭和20年1月、大阪府の副知事であった島田叡の姿は庁舎内の知事室にあった。
決して生還のできぬ赴任になるであろう沖縄県知事着任の内示を受けた島田は、「誰かがせねばならないなら自分がせねば」との固い決意の元、実際にわずか数ヶ月の赴任期間中に、20万もの沖縄県民を疎開させることに精力を傾けその命を救った。
島田叡(あきら)知事初めとする県職員らの功績である。
その島田沖縄県知事の出身校でありOBでもあった東京大学野球部はいまもここ沖縄でキャンプを張るようになっており、島守の塔にも必ず参拝していることを最近知りました。
彼ら野球部員もまたOBである大先輩の島田叡を通して今も学ぶべきものがあることを感じるのだといいます。
「東大野球部にとって島田は今も生きた先輩であり指導者であるのだ」 門田隆将。
名前 |
島田叡氏顕彰碑 |
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関連サイト | |
評価 |
4.5 |
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記念碑があるとは知らず過ごしていました。
こういうモニュメントがないと地域の貢献や歴史はわからない。
詳しく読む機会はすぐないが貴重だなと思った。