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名前 |
伊勢田道益・百武萬理の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
平成29年6月23日参拝天保一二(一八四一)年福岡藩処刑場大浜(おおはま)で行われた人体解剖の執刀者百武萬里の墓と、伊勢田道益義倫の墓石が遺されていた。
道益の戒名は「瑞鶴軒仙峰道益居士」となっており、その裏面に刻まれている碑文によれば、安永一〇(一七八一)年より黒田藩の七代藩主治之治之(鳳陽院)及び八代藩主治高 治高(龍雲院)の侍医を務めていた伊勢田道益義倫が、寛政九(一七九七)年頃、特に刑人の身首を請いてそれを解剖(解脈)している。
また、道益はその成果を「解体図記」という文書としてまとめた。
残念ながら浸食のため文字の一部はすでに消えてしまっている。
伊勢田道益義倫の墓に関する情報をさらに追求したところ、荒井周夫が昭和四(一九二九)年に発表した『福岡県碑誌』に、完全な形での記述が見つかった[5]。
道益による人体解剖を示す唯一の史料としてこの墓碑は大変重要なものである。
「伊勢田道益義倫、其先播州人、従藩祖之於移豊之中津、又従而来本州、其八世孫云道益素仲、長子則義倫也、自安永辛丑、而待医鳳陽、龍雲二君、寛政丁午歳、特請刑人之身首、於■府解脈之、撰書曰解体図記 解体図記。
かいたいずき、実以文化己巳二月十有九日卒云」(伊勢田道益義倫の其の先は播州の人。
藩祖[=黒田孝高]の豊の移るに従いて中津に之き、又従いて本州より来る。
其の八世の孫は道益素仲と云い、長子則ち義倫なり。
安永辛丑より鳳陽・龍雲二君に待医たり、寛政丁午歳特に刑人の身首を請い、■府に於いて之を解脈し書を撰して解体図記と曰う。
実に文化己巳二月十有九日を以て卒すと云う。
)これは京都の山脇東洋による「観臓」(宝暦四年)、河口の『解屍編』(明和六年)や『解体新書』の出版(安永三年)などで時代が大きく動き始めた一八世紀後半に行われている。
当時広まりつつあった身体の「内景」への知識欲は道益が著述した「解体図記」に裏付けられているが、その史料は現存しておらず、彼の動機、ねらい、解剖の成果などは謎に包まれている一見したところ、上記の墓碑は村上玄水による解剖が九州初だったことを覆す内容であるが、解剖が行われた「■府」という断片的な情報の問題を見過ごしてはならない。
黒田騒動史跡の関連で糟屋郡須恵町の石瀧豊美氏による処刑場に関する詳細な研究があるが[7]、氏のご教示によれば、「■府」をそれらの刑場に関連づけるには碑文の内容から見ても当時の福岡藩の刑場の状況から見ても無理があるということである。
確かに、福岡藩の通常の処刑場ならば、それをわざわざ墓碑に入れる必要はなかったはずである。
福岡藩の刑場でなければ、次の選択肢として「江府」という解釈が考えられる。
この場合も、様々な疑問を禁じ得ない。
伊勢田道益による身首の請いは誰に提出されたのであろうか。
江戸では藩主ではない。
また、前野良沢。
まえのりょうたくと杉田玄白。
すぎたげんぱくらが明和八年に江戸の処刑場で解剖を参観して以降、京都、大坂、甲洲、一関、萩、畑山、広島、日光、福井などで様々な刑死体解剖が行われたが、一八一〇年代から四〇余回の解剖に立会った南小柿寧一(みながきやすかず、一七八五〜一八二五年)が文政二年に著した絵巻「解剖存真図 」以外は、江戸での人体解剖を示す記録は見当たらない。
寛政年間の江戸での状況を考慮すれば、伊勢田道益による「江府」での解剖は異例の出来事であったと思われる。
一方、村上玄水の解剖は九州初として伝わっている。
史料不足のためこの件はいまだ多くの謎に包まれており、新資料の発見を待つしかない。
幸い村上玄水の場合は自筆原稿「解臓文」と「解臓記」が重要な情報源として残っている。
臓器に関しては中国医学の各流派は宋時代以降ほとんど変わらない二、三種類の五臓六腑図五臓六腑図。
ごぞうろっぷずを十分と見なしたが、一八世紀後半に解剖を行った医師たちは深い探求心を持ち身体をより視覚的に理解、描写しようとしていたのである。
質の高い絵図による記録を取るため、玄水は中津藩の画員片山東籬(かたやまとうり)と助手の佐久間玉江。
さくまぎょっこうを動員した。
また、中津藩内外の同僚などに対する責任感と使命感も注目に値する。
筑前・肥前から解剖場に集まってきた五七人の見学者への連絡は彼の行動の計画性を裏付けている。
上記の原稿に見られる帆足万里。
ほあしばんりによる校閲及び序文を考えると、その文書の刊行への玄水の意欲を感じ取れる。
さらに、自序で「ヒツホカラテス 」、「回斯篤児(ホイステル)」(Lorenz Heister)、「パンリス」(賢理、Henry Williamか)、前野良沢及び宇田川榛斉を挙げ、自分が行った解剖の位置づけを示す姿勢も高評に値する。
このことを総合すると、「九州初」かどうかに関わりなく、玄水による人体解剖が個人的好奇心を遙かに超えた、九州地方における偉大な歴史的功績であることに変わりはない。
近世日本の解剖史に関する研究には二つの流れがあるようだ。
ひとつはそれぞれの時点で先駆的な役割を果たした医師(蘭方医)を中心に進める研究であり、もうひとつは、文化人類学の刺激によるものか、死体解剖と日本人の身体観に着目する研究である。
多くの解剖場に数々の見学者が集まったが、その中の医師が受けた影響及び彼らの反応を示す史料はまれであるようだ。
伊勢田道益の解剖からも村上玄水の解剖からも人体解剖の継続性のようなものは生まれなかった。
山脇東洋の歴史的な「腑分け」から半世紀を経ても刑死体の解剖は特別許可を前提とする例外的な行為だった。
勿論、権力側の消極性はひとつの理由だったであろうが、解剖刀を握った医師及び立ち会った医師たちは一、二回の「観臓」でその知識欲を満たせたようだ。
伝統医学との整合性がなく、その病理学的調整が難しすぎたためか、解剖により得た知識を実際の医療に生かせなかったためか、村上玄水も伊勢田道益も多くの先駆者たちと同様に二度と死体を請うことはなかった。