元の襲来に備え博多湾に沿って約20kmの海岸に築か...
元寇防塁 西南学院大学1号館 / / .
ちゃんと保存している。
日本の危機の歴史。
危険物の試験で初めて行きましたが、少なくとも私が受けた教室には掛け時計が無かったので、此処で試験など受ける方は気を付けて下さい。
今までは腕時計をして試験に行ってましたが、掛け時計で十分だったので今回は腕時計を外して行ってしまいました。
机も他の所に比べて狭かったです。
(^_^;)
全館閉館日には見学出来なくなります。
長期休暇などは事前に確認を!
登るのは禁止ですが、実際にどんな感じなのかチェックすることができます。
高さは2mほど。
西南学院大学の中にあるので、見に行くのがちょっと面倒。
実際に見るのは初めてで 凄さを感じました。
これは確かにそれらの珍しい発見の1つであり、文字通り隅に隠れています。
あなたはそれを見つけることは決してないだろう。
そこに行くには、西南大学のキャンパスに入り、1号館に行く必要があります。
ロビーの隣には、いくつかの窓から壁が見えます。
次に、よく見る(必要に応じてタッチする)には、1階に降ります。
ドアが開いています...出来上がり!(原文)This is indeed one of those rare finds, quite literally tucked away in a corner. You would never find it. To get there, you have to enter the campus of Seinan University, go to Building 1, and there, next to the lobby, you can see the Wall through some windows. Then, to have a closer look (and touch, if you so desire), go down to the first floor. The door is open... Voila!
今から700年以上前、元の襲来に備え博多湾に沿って約20kmの海岸に築かれた元寇防塁。
当時「石築地」と呼ばれたこの石塁が、2度にわたる暴風雨とともに、元の野望を打ち砕いたのでした。
13世紀初めにチンギス・ハンによって統一され、アジアからヨーロッパにおよぶ史上最大のモンゴル帝国を築いたモンゴル族は、1271年に国号を元(大元)に改め、1279年には南宋を滅ぼすなどその支配圏を東アジア・東南アジアのほぼ全域に延ばしました。
南宋の攻略がほぼ完了した1274(文永11)年と1281(弘安4)年の2度にわたって元は日本に遠征軍を送りましたが、いずれも失敗しました。
鎌倉時代のなかばのことで、日本ではこの侵略事件を蒙古合戦・蒙古襲来・元寇、あるいは文永の役・弘安の役などとよんでいます。
朝鮮半島にあった高麗を服属させた世祖フビライは、次に日本に対して朝貢と国交を迫りました。
これに失敗すると、高麗兵を主力とする約28,000人の兵力で博多湾に侵寇し、日本軍と激戦を展開しましたが、たまたま大暴風雨で兵船が壊滅的打撃を受け、撤退しました(文永の役)。
元の再襲を恐れた日本は博多湾岸の今津から香椎にいたる延長20kmにおよぶ石築地(元寇防塁)を築くなど、防衛体制を整えました。
南宋を滅ぼした元は蒙古・漢・高麗人からなる東路軍と旧南宋軍を主力とする江南軍の計14万人の兵力で再び遠征してきましたが、この時も暴風によって兵船を失うなど、得るところなく撤退しています(弘安の役)。
しかし元は日本遠征をあきらめず、3回目の出兵準備を進めていました。
しかし、フビライの死によって断念しています。
この当時、元の前線は延びきっていて、中国南方やベトナムなどで反乱があるなど、体制は万全ではありませんでした。
東アジア・東南アジアではジャワとともに元の支配を免れた日本ですが、それは各地の元への抵抗運動や、遠征軍の主力が厭戦感をもつ被征服者の高麗軍や南宋軍であったことと無縁ではなかったと思われます。
名前 |
元寇防塁 西南学院大学1号館 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金] 9:00~17:00 [土日] 定休日 |
関連サイト |
https://www.seinan-gu.ac.jp/introduction/facility/facility.html |
評価 |
4.1 |
さすが歴史を良く勉強している有名大学。
先生 生徒 仕事スタッフ皆感じが良い。
キャンパスも美しい。