尊皇攘夷派公家(そんのうじょういはくげ)の太宰府入...
名前 |
三条実美の歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/uploaded/attachment/2255.pdf |
評価 |
5.0 |
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明治維新は、尊皇攘夷派公家(そんのうじょういはくげ)の太宰府入りが大きなきっかけとなりました。
三条実美(さんじょうさねとみ)・三条西季知(さんじょうにしすえとも)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・壬生基修(みぶもとなが)・四条隆謌(しじょうたかうた)の5人(五卿)です。
彼らは、藩閥(はんばつ)政治を廃して王政復古をめざした勤皇(きんのう)派の士族たちと組み、永年の圧制に反発する農民などの世直し運動とも結び、さらに西欧列強諸国の開国要請という社会情勢を背景に19世紀末の政治改革を実現させました。
慶応元年(1865)2月、長州(ちょうしゅう)藩から筑前黒田藩が支配する太宰府天満宮延寿王院(えんじゅおういん)に移された五卿は、ここで薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本龍馬、筑前の月形洗蔵、平野国臣など勤皇志士たちと新しい政治をめざし秘策を練りました。
これに対し、幕府側は目付役の小林甚六郎らを派遣して五卿の京都帰還を図ったため、勤皇派との間で緊迫した関係が続きました。
月形洗蔵は、市内古賀に幽閉された後、乙丑(いっちゅう)の獄で刑死するなど動乱の時代だったのです。
時に、洗蔵38歳でした。
「ゆのはらに あそぶあしたづ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ」 二日市温泉の大丸別荘旧玄関に建つ歌碑に刻まれているのが、三条実美の一首です。
“湯の原を群れ遊ぶ鶴に聞いてみたい。
おまえたちなら知っているだろう、はるか古代の御世をと”かつての律令制と王政復古(おうせいふっこ)を重ねて、これから来るであろう新しい時代への激しい思いがあらわれています。
実美は維新のリーダーとして新政府の太政大臣も務めました。
武蔵寺の山門横にある東久世通禧の一首。
「藤なみの はなになれつつ みやびとの むかしのいろに そでをそめけり」 通禧は新政府で外交を担当し、元老院議官も務めました。
竹亭の雅号で歌人としても知られています。
当時、武蔵で五卿の世話をした温泉奉行の松尾家の近くに三条西季知の歌碑があります。