諏訪藩にお預けの身となり当地で没する。
「吉良上野介義央」(きらこうずのすけよしひさ)長子で上杉氏に養子入りした四代米沢藩主「上杉綱憲(うえすぎつなのり)」次子「吉良左兵衛義周(きらさひょうえよしちか)」(1686/貞享3年~1706/宝永3年)は、祖父「吉良上野介義央」の養子となり1701(元禄14)年吉良家を継いだが、翌1702(元禄15)年12月14日の赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討ち入りに遭遇し、手傷を負ったうえ「仕方不届き(幕府公邸たる吉良邸に狼藉者を侵入させ『吉良上野介義央』の首をとられたこと)」として領地召上げのうえ四代高島藩主「諏訪安藝守忠虎」お預けとなった。
配流から3年後に21歳で病死するも亡骸の引き取り手がなく、幕府の検死を経てここ「鷲峰山法華寺(しゅうぶせんほっけじ)」に埋葬されたという。
墓石には「室燈院殿岱嶽徹宗大居士神儀 寶永三丙戌天正月廾日」と刻まれるが、その前に佇んで、赤穂浪士の語られる美談の陰に、運命の暗転に沈んだ若者の人生を追想するかけがえない機会を得ることができた。
名前 |
吉良義周の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
赤穂浪士さん、ばかりが 人気ですが、私は吉良さんの功績が注目されずに 可哀想かな?と思っていましたので、吉良上野介さんの関係のお墓を見つけて 嬉しかったですよ。